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「日本に必要な活力の再生」/新保祐司氏は、”私と公”を取り上げ、”公”に生存の意味を感じ発する本当の喜びに基づいた活力こそが今日本に必要だと・・・・少し哲学的ですが、、、

「『昭和と明治』祝日によって喚起される国民の記憶」昭和の日をお祝いする集い実行委員会編

私の手元に、本日11/3を「明治の日」にという意味で、昭和の日をお祝いする集い実行委員会から送付されてきた、「『昭和と明治』祝日によって喚起される国民の記憶」という小冊子があります。

新保祐司氏

新保祐司氏については、ご存じの方もいらっしゃると思いますが、産経新聞正論欄執筆メンバーで歴史や宗教に造詣の深い文芸評論家です。

本コラムでも、本年のお正月に、元旦に新保氏執筆の産経新聞「正論」について取り上げたことが有ります。

上記の記事で、新保祐司氏は明治の精神の高貴さを言い、そして昭和の精神へと演繹をし、その高い精神性を令和へと繋ぐべきとの意図で書いておられました。
そして私はそこに活力の重要性をコメントしました。
それは、
明治の日本人の、近代産業とて何もない状態から近代工業を起こし近代の知識を充実させ大国ロシアを打ち負かすに至る近代陸海軍を構築しついに5大国と言われるまでの興国を成し遂げたとてつもない活力、
そしてあれほどまでに徹底的に米国から日本全国を爆弾で廃墟にされたにもかかわらず第二次大戦後に敢然と復興に立ち向かい辛抱に辛抱を重ね情熱に次ぐ情熱を傾け実に20年そこそこで米国に次ぐ世界第二の経済大国を実現した昭和の日本人のとんでもない活力、
その二つを慮ったからです。

新保祐司氏が”私と公”を語り、”公”に生存の意味を感じて発する”生存の喜び”に基づく「活力」の重要性を指摘

以前の記事から長い引用をしたのは、「『昭和と明治』祝日によって喚起される国民の記憶」という小冊子に、そこで論じた国家の「活力」に言及されていたからに他なりません。

新保氏は先の小冊子の中で、
”私と公”について語っています。

明治の世にあれだけとてつもない活力を日本人が発揮できたのは、それまでは村とかせいぜい藩の枠内でしか人間を捉えることができなかった日本人が天皇の存在を中心として日本という”公”に気付き人間としての本当の喜びを感じたところあるのではないか、と言い、昭和の世も同様な喜びがあったと言っています。
そして、コロナが起きた今現在、憂鬱な顔をしている日本人が多いのは、自分の趣味に生きるとか、自分の健康保持のためにスポーツをするとか、コロナ禍の中で散歩するとか、”私”が中心になっているところがあって、真の喜びが生まれてこないのではないかと、言っています。

この”私と公”という対照は、非常に重要なことを言っていると思います。そして活力が乏しい現在はやはり”私”だけが独り歩きしている状態なのだろうと思われるのです。

そして、
「『公』という概念ー何か大きな中心ができたのです。村長より大きな存在に自分たちは仕えることができる、そこに自分の生存の意味を感じる。活力は生存の意味からしか生まれないので、美味しいもの食べても、散歩しても、スポーツクラブに行っても、本当の喜びはないのです。本当の喜びというのは、生存の意味にあります。」
と本当の喜びが生存の意味に発したものであることを言い、
「それが明治と敗戦後の昭和には有ったのですが、今は見えなくなっている。ここが問題で、日本が活力を出すにはそれを取り戻す必要があります。」
と結論付けています。

まさに、人間の精神とはそういうものだと思います。


以上、新保祐司氏の発言を取り上げ、今日本に必要なことは、活力の再生であることを記してみました。





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