「一技術者が仕事の意義について考えてきた一側面 (3)近代との対面と私/定年講演
・「近代との対面」
改めて「雪埋梅花 不能埋香」、
「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存じ候」
これらは19世紀生まれの日本人の言葉ですが、第二次大戦の断絶を越えて普遍的な、日本人が「個」と「組織・日本」を両立させた飛び切り優れた「近代」だと、私は思っています。
「近代=西欧近代」のコンセプトはご多分に漏れず私にとっても巨大で、また媚薬も強力な毒も含んでおり、個人として目指すべき近代に行きつくまでは、現代の若者と寸分違わず、煩悩に塗れ、足搔かざるを得ない状況が有りました。
その足搔きの中で、やはり「近代」=個の確立 を越えた価値を思わないではいられませんでした。、、、、さして深い洞察までは到達できませんでしたが、私は無神論では生きられません。同時に致命的不幸にも会わず、残念ながら信仰に深く帰依することもできませんでした。
救ってくれたのは、端的に、「横の連帯と縦の紐帯」でした。
・「個としての私とは」
まず、「個」のほう、個としての私は、、
私は人並みにヘタレ、・・・おそらく日本人の平均値(私を不埒だと思う人は、これは非常に純な人。私を純な人と思う人は、非常に不埒な人です。あれ!今逆じゃないかと思った人がいる!かもしれませんが、逆だと思う人、これはとっても不埒な人です、でも私は結構不埒な人が好きです。)
「近代」=個の確立 の概念を超えるという意味で端的に、『死とは?』(信仰的)という問いに対しての私の応えですが、
『あの世はあるのか?』・・・信じる限りにおいて有る(泉美治):これに近い。
『「死」とは何か』・・・魂は無いとして今を真剣に生きよ(シェリーケーガン/イェール大)・・・もちろんわかるけど、これとは少し違う。
結論的に、私は神(Godというより八百万の神々や仏)を幾分信じております(八百万の神々や仏は、私にとって死んだ親父や祖父母に近い存在です)。
(4)に続く