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ブラジル人が時間を守れない理由

「じかん」についてである。

わたしは、元々はじかんを守れる人だ。基本的に10分前行動をしていた。なのだがあるときから、どうしても気になることがある場合、それをやってスッキリしてから行ったほうが、気になるを放置して時間通り行って、相手が中々来なくてイライラする、ということがなくなるなと気付いた。例えば洗濯物ほしたいとか、食器洗ってから出たい、とかさ。

日本人は時間に病的だ。

それと同じように、南米人も時間に病的だ。ただし真逆の意味で。

病的に時間が守れない。

昨日、花祭りで日本人の男の子と、人を待っていた。来る予定だったのはホンジュラスの女の子。彼女が1時間たってもなかなか来ないので、男の子はしびれを切らしていた。私はそれを横目に同情しつつ、「時間が守れない」という概念について考えていた。

日本人にとって、時間は歯車のようなものだ。

時間があることで、皆がちゃんと動ける。そしてその歯車は共有のものなので、誰か一人が時間通りにしないと、皆に迷惑がかかる。これが「時間を守らないと人様に迷惑がかかる」の考えのベースだと思う。

対して南米の人は、この概念を持ち合わせていないような気がする。だから、彼らに対して「時間が守れない」というのはお門違いである。彼らに撮って時間は守る対象ではない。では、なんだろう?

それは、海に浮かぶブイのようなものだ。

大きな流れ。人間が浮かぶ何か。うねりうずまくもの。

そのなかで、人がちゃんと集まれるようにするための目印のようなものが、彼らにとっての「待ち合わせ時間」。

それは海に浮いているから、あっちいったりこっちに来たり、上がったり下がったり、する。しかもそれぞれに状況が違う。自分は追い風ですいすいたどりつけても、誰かは嵐に翻弄されていたり、誰かは凪で動けなかったりする。

でも、ブイにたどりつけばいいのだ。

目的は「ブイに到着すること」ではなく、「皆が迷子にならず、どこかしらで集まれること」だから。早くても遅れても、皆あつまれればそれでOKなのである。

そう考えると、なんとなく納得が言った日曜日の午後。

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