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Short story_摘み取られた果実

Figue 香料原料 植物

物語から想起される香り 香りから生まれる物語

あなたはこの物語からどんな香りを感じますか

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今となっては、

私自身が実際にその風景の中にいたのかすら、朧気だ。
防音材の貼られた視聴覚室の黴臭さ。
風に揺れていた遮光カーテン。
色褪せた午後の陽射しを肩に受けながら、ピアノを弾いていたあいつ。
一度も整うことの無かった頭髪。埃っぽいその寝ぐせの付いた髪が、陽を浴びて光の粉を被ったように輝いていた。

実家の自分の部屋。

窓を開けると青いそして甘い匂いが漂う。庭のイチジクは今年も多くの実を付けた。
あいつが、今この流れを変えつつある世に生まれていたなら。
あの繊細な情動も、そのままでいられたのだろうか。何処にも収まることのなどないあの感性を無限に広げて。


**********
「キモチワルーい」
教室内に響くその一言は、今日も彼の生存権を奪う。
グループワークの理科の実験中、彼が隣の女子に渡そうとした試薬瓶は、それを受け取る手を失い、机の上に倒れて彼のノートの上に希塩酸が零れる。
「おい、何やってるんだっ。」
白衣を着た理科教諭が彼のノートをシンクに運び、容赦なく水をかけて濯いだ。
水性ペンで書かれた文字は滲み、黒く染まっていくページ。
ああ、だめだこりゃ、という教師の声と、周辺で沸き起こるクスクスという笑い声。
「ほんっと、やだ。」
「ムカつくんだよ。」
何処からか伸びた複数の足が、彼の椅子を蹴る。
一切の逸脱を許さない集団の中、自警団のような集団の眼は、彼の存在を無いものにするまで執拗に攻撃を仕掛けた。

南いつき
彼がしゃべるところを、この教室では見たことがない。
身体は小さくはないが、少し長く伸び、乱れた髪はどう見ても清潔とは言えなかった。
誰が何と声を掛けてもはっきりと返事をしないことや、授業中に教師に当てられても頑なに無言を通すので、コミュニケーション障害とされ、人は彼から次第に遠ざかっていった。

けれど、いつきは誰に危害を与えるわけでもなかったし、脅威でもなかった。
もともとは小さな揶揄いから始まった事が、いつの間にか、高校受験を前にした生徒たちのストレスの捌け口となっていく。
理由なんて何でもよかったのだ。
誰だってよかったのだ。

14歳の群れの中で歪んだ憎悪の生贄になるには。

集団からの逸脱、という点からいえば島田壮一も同じく、周囲の生徒からは浮いていたが、学級から距離を置こうとしていたのはむしろ壮一の方だった。そして、それをあからさまにはしない程度の品格は持ち合わせていた。

島田壮一はサッカー部のエースでありキャプテンでもある。
日焼けした身体は、成長過程でありながらも既に成人の均整があった。
成績も優秀だった。
壮一に気に入られたい下心で、彼に媚び、近づこうとするのは生徒のみならず担任教師ですらそうだった。
彼にはそれが見え透いていて、何より学級がこの世界の全てであると思っているクラスメートたちの幼さにはうんざりしていた。

テストの返却。
点数を見せ合い、悲喜交々のクラスメートたちの声。
視界に入るのは、袖丈の合っていない学ラン姿。
まだ母親の庇護のもとにあることをうかがわせる、切りそろえられた短い頭髪の集団。
着せられているだけのカッターシャツ。
成長期の筋肉と骨格のアンバランス。
全てが未完成で不安定のあやうさ。

「島田君すごい。今度もまた全科目100点なんじゃない。」
クラス中に聞かせるように、これみよがしに大声を出す隣の席の田辺恵里。
科目担当の教師は期末考査の結果の上位者の点数と名前を皆の前で読み上げる。
成績順位など壮一にとっては、もはや、大声に値する出来事ではない。
むしろ、成績の上位に入っていないのであれば、そのほうが周りを大いに驚かせるだろう。

壮一本人は一言も語ったことはなかったが、両親が医者だから医者の道を志している、と誰もが自明のことのように思っていた。

壮一は学級内の成績順位の無意味さを知っている。
高々、40数人の中学校の学級。
高校受験で戦わなければならない相手は、この学級の外に存在していて、その高校受験すら狭い地方地域の小さな出来事に過ぎず、その先の世の中には自分など足下にも及ばない、天才、という存在がごまんといる。多少成績のいい人間が就く職業が、医師、弁護士、公務員以外にも無数にあることを、ここにいる級友たちはまだ知らないのだ。

そういった、達観したような態度がどことなく壮一を大人びて見せていた。

「も、島田君はポーカーフェイスなんだから。本当はまたクラスで一番で嬉しいんでしょう。」
恵里の冷やかしに心底嫌気がさし、その顔を軽く睨みながら教科書とノートを纏めて教室を出た。

その直後、ガタンと机が倒れる大きな音が教室で響く。
そして、悲鳴にも似た笑い声の洪水。

いつきの机が床に倒されている。
その横で立ち尽くしているいつきの紺色のスラックスには、誰かの上履きの底の跡が白く残っている。
また始まった。
女子を相手に、やられるだけやられているばかり。何も抵抗をしないいつきを見ていると腹が立った。
何より、この低俗な学級という世界が卒業までのあと8か月も続くという事実にため息が出た。


島田壮一の家は高台にある住宅街の、広い邸宅の並ぶエリアにある。
部活を終え、帰宅すると玄関わきに茂ったイチジクの木から2つ実を千切る。乳液のような滴を振り払い、一つに齧りつく。
まだ灯りのついていない家の鍵を開けると、2階の自室にカバンを投げ出し、リビングのオーディオで棚の中のビルエバンスのレコードをかける。
それから、冷蔵庫の中から食材を取り出し、自分で簡単な炒め料理を作りはじめる。

父も母も大学病院で勤務しており今日も夜まで帰ってこない。
これから両親が帰ってくるまで、夕食を摂りながら自由にレコードを聞ける時間だ。
レコードプレーヤーを自分一人で触ってもよいとついに父から許されて以降、毎日のように片っ端からレコード棚の中のレコードを出しては聞いていた。

ジャズから昭和歌謡、ポップス、クラシック、レコード盤の時代の音楽。
さだまさしも五輪真弓も尾崎亜美も、CDで聞くTMネットワークやB‘zと同じように、壮一の胸を打った。

ある日、南いつきが授業に遅刻し教室に入って来る。
その右手首には固定ギブスをしているうえに、顎に大きな絆創膏が貼られている。
その姿にクラスは騒然とした。
そして、まもなく教頭が授業中の教室を訪れ、教員と目くばせすると、いつきを連れ出した。

まさか、昨日の放課後、机を倒され、それ以上に何かエスカレートして怪我でもさせられたのか。
毎日のようにいつきを揶揄い、いじめている女子たちに対して、皆、何となく目を向けた。その中心の一人、田辺恵里は目を向けた男子に対して顔の前で手を振り、私ではない、やってない、と否定している。
確かに、あの女子グループが、いくら何でも男子相手にギブスが必要なほどの怪我を負わせるとは考えにくい。
いつきは、このクラス以外のどこかでも、暴力のいじめに遭っているのだろうか。

「ねね、職員室に警察の人が来てるらしいよ。」
給食の時に、女子が騒いでいる。
「なに、いつき?あれどうしたの?交通事故か何か?」
「なんか、いつきがまた黙りこくって全然話さないから、困ってるみたい。」

いつきが教室に戻って来ると、生徒の一人が好奇心を抑えられずにいつきを小突きに行く。
「おい、おまえ、この怪我どうしたの。」
しかし、例によっていつきから耳に届く様な答えは無い。
「無視すんなよっ。」
話しかけた男子はそう吐き捨てて、踵を返す。
いつきは午後の授業には出ていたが、下校時刻を前に一人早退していた。

壮一がその夜、風呂から上がると、父と母がリビングでテレビを見ながら話している。
「骨折か。その子、右手じゃ不自由だよな。全治3週間か。」
「警察は加害者も分かってるし、もう一人の被害者から被害届も出ているから、あとは本人次第とは、言ってたけど。」
父は大学の内科勤務で、母は整形外科だが、ふたりとも時折救急センターでも働いている。

「おい、壮一。お前の学校で喧嘩被害があったの知ってるか。」
ビールで顔が少し赤い父がそう言うと、母は止めなさいよ、と目でたしなめる。
「ガラの悪い奴が夜の駅前には多いから、お前も暗くなったら駅の方には近づくなよ。」

「喧嘩って。怪我って、誰のこと。」
壮一は父に聞き返した。
「誰とは言えないけど、っていうか、忘れたけど、確かおまえと同じ学年だった。救急に運ばれてきて、名札の学校名が同じだから、ぎょっとした。」
いつきのことなのか?喧嘩被害って?
不良にカツアゲか何か絡まれでもしたのか。
「でも、警察が感謝状が出るかもしれないって言ってたから、学校でもいずれ分かるわよ。」
「感謝状?」
「そう。悪い人に絡まれていた子を助けたんだって。」
嘘だろう。それならば、いつきであるはずはない。
彼(・)が(・)絡まれ、誰かに助けられたと言うのなら分かるが。

一週間後、校長が朝礼の時に、全校生徒の前で、いつきが警察から感謝状を贈られたことで、彼を学内でも表彰した。しかし、その内容は困っている人を助けた、というだけで、曖昧に濁されてた。

近くにある養護学校の生徒が、明るいうちから酔った大人数人にぶつかり、そのうちの一人から服が汚れた、クリーニング代を出せ、などと絡まれた。精神が不安定だったその子はパニックを起こしてしまい、トラブルになったのが発端らしい。周りの大人たちは見て見ぬふりで通り過ぎるばかり。泣きわめくその子を無視し続けた。それを見ていたいつきが、その場に飛び込み、その子を庇うように救い出そうとした際に殴られたと言う事だが。
目撃者によると、泣く子を庇うように酔っ払いに向かったいつきは、その効果があったかどうかはともかく、落ちていたビール瓶を手に反撃をしようとしたらしい。そこに至ってようやく周りの大人が止めに入った。

壮一は、教師からそのように一部始終を聞かされたが、まるで信じられなかった。
教師も、信じられない、と言った。
「南は稽古事かなんかでたまたま駅の近くを通ったそうなんだが。」
教師はさらに言った。
「あいつは、クラスではいつもあんな風に、何も言わない大人しい奴だが、何かの拍子で爆発すると、何するか分からん。自分も気を付けて見ておくが、授業時間以外は難しい。悪いが、ちょっとクラスの中で彼を気を付けて見ておいてくれないか。こんなことを頼めるのは島田しかいない。お前を見込んでの頼みだ。」
放課後、教室は壮に教室に一人残るように言い、廊下の窓を締め切ってこの話をした。
話を終えて教室を出る壮一の背中に向けて、教師が言った。
「おい、この話は他言無用な。」

そんなことは言われなくても分かっている。
クラスではこんな話を聞けば、また面白可笑しく騒ぎ出す連中ばかりだ。

全校生徒の前で表彰されてしまったことで、その後は案の定、いつきに対する周囲の揶揄いはエスカレートしていった。
そんなことも予測できずに、いつきを全校朝礼の皆の前で晒した教員たちの無神経さには腹が立った。
教室では、常に誰かがいつきをサンドバック代わりにストレスの捌け口にしていた。
いつきの机の横を通るたびに机の上の物を全て払い落とす者。
あからさまにいつきの給食にごみを入れる者もいた。
陰湿さが増していた。

教師から、彼に注意しておくようにいわれたこともあり、
壮一自身も、そのうち南いつきが校内でキレて爆発するのではないかと不安になった。
割れたビール瓶を持って教室内で暴れるいつきの姿がふと思い浮かび、すぐにその想像を振り払う。

その日、校門を出ると、自分のはるか先にいつきが歩くのが見えた。
面倒臭さにため息が出る。
途中、川沿いのイチジクの木に実が付いているのを見つけ、2つ捥ぎ取った。

早歩きで横に並べる距離までいつきに追い付いた。
あくまで自然を装い、クイーンのボヘミアンラプソディを聞いていたイヤホンを両耳から抜いた。

いつきに声をかける。
「よお。手のギブス、取れたな。良かったな。」
いつきは少し驚いたような顔をして、壮一を見た。
そして、ギブスのとれた右腕を少し上げてみせた。
「ああ、良かったな。右手じゃ不便だもんな。」
最低限、いつきから無視されなかった事に、壮一はひとまず安堵した。
「これ、旨いぞ。」
壮一はイチジクを一ついつきに渡すと、自分でもう一つを食べ始めた。
いつきは、食べずに、ずっと匂いを嗅いでいる。
「なんだ、嫌いなのか。」
いつきは首を横に振り、鼻にイチジクを押し付け、ただその香りを吸い込んでいるようだった。
そのまま坂道をいつきと無言で上って行く。

「好きなんだ、この香りが」
急にいつきが声を出したので、壮一は少し飛び上がるほどに驚いた。
「な、なんだよ。なんだよ。」
おまえ喋れるんじゃないか、という言葉を呑み込んで、飛び上がってしまったことを何とかごまかそうとした。

通り過ぎる車の音に掻き消されそうな声で、いつきが喋った。
「え、何て言った。」
「ギブスがとれてやっと練習ができるよ。」
「え、練習?今、練習って言ったか?何の?何の練習だ。」
壮一はまるで子供に話しかけているような気すらしてきたが、誰に対してもほとんどいつも無反応ないつきが自分と言葉を交わしてくれることに純粋に喜びを感じていた。
「ピアノ」
「おまえ、ピアノやってるのか。そうなのか、スゲーな。知らなかったよ。」
知るわけがない。
まったく、こいつには驚かされてばかりだ。

「何弾くんだ。ビリージョエルとか、俺好きなんだよ。それとも来生たかおとか。」
「島田君、なんでそんな古い歌知ってるの。」
いつきが話を繋いでいる。
しかも、まともだ。まとも過ぎる会話だ。
こいつはコミュ病などではないのではないか。

「あ、ああ。うちはさ、親がLPを、レコードをさ、沢山持っていて、それがそういう古いのが多いからかな。」
壮一も、いつになく自分のことについて語っていた。
「レコードか、いいなあ。一度聞いてみたい。僕はレコードを見たことも実際に音を聞いたこともないんだ。」
「じゃあ、今度家に聞きに来いよ。どうせうちは夜まで親いないし。」
「いいの?」
「いい、いい。いいさ。まあ、俺の部活終わってからだけど。それにさ、あのさ、家にピアノがあるんだよ。母親のものだけど、もう誰も弾かないんだ。もし、もし良かったらさ、今度家に来た時に何か弾いてみてくれないかな。」

「ピアノ?本物の?」
いつきの声は蚊の鳴くよう声から、少しヴォリュームを上げたようだ。
「何だよ、ピアノには、偽物とかあるのか。」
「ちがうよ、家にあるのは電子ピアノなんだ。週一回、先生とのレッスンでしか本物のピアノを弾けない。」
「なんだよ、そういうことか。今度うちに寄れよ。」

その日はそう言って別れた。
壮一は自分でも混乱するほど興奮していた。
クラスの誰も成功しなかったいつきとコミュニケーションが、自分には取れたことが、自分だけ犬や猫と話ができる才能を得たような、特別な能力に思えた。
しかも、いい話だ。
いつきはピアノを弾くらしい。
それは誰もから万能と思われている壮一にとっても、残念ながら不可能な技術であり、そして憧れであった。
ジャズやポップスをピアノで弾けたらどれほどいいだろうか、と夢に見ていた。
母が若い頃に弾いていたというピアノは、実際家の中で収納のない棚と化していた。

そういえば、いつきの顔をまともに見たのも今日が初めてだった。
華奢でべニヤ板が服を着ているような印象しかなかった。
実際、以前に誰かが、彼を‘かまぼこ板’と呼んでいた。
彼は、壮一と変わらぬ身長で、そして傷も吹き出物もない、日焼けもない肌をしていた。前髪に隠れて良く分からなかった目や眉は、決して醜くはない、というよりも、見方によっては美男子の部類にすら入るかもしれない。

それから、いつきは数回、壮一の家を訪ねてきた。
そして、ピアノを弾いた。

ショパン、サティ、TMネットワーク、米米CLUB、B‘z、美空ひばり。
壮一がリクエストした曲は何でも弾いた。
壮一が、ピアノというものは誰もがどんな曲もレコードCDと同じように楽々と弾ける楽器なのではないか、と誤解するほどに(その誤解は壮一自身が実際に鍵盤を叩いてみてすぐに解けるが)すべての曲を楽譜もないのに、滑らかに弾き上げた。
知らないと言うから聞かせたばかりのLPの曲を、いつきはすぐ直後にピアノで演奏した。それも、ただのコピーではなく、ジャズ風にアレンジして。

壮一は、目の前でいつきの演奏を聞き、CDよりも、さらに腹の奥に届く様なLPよりも、さらに力強い生音の力を知った。

体全体がいつきの奏でるリズムにシンクロする。
初めて聞いた時、壮一は言葉を失っていた。
このいつきを、あの教室のいつきとは全く認識できなくなっていた。
溢れるほどの情感を湛えた演奏を、誰があの無口無表情のいつきの演奏だと思えるのだろう。

「あ、ここにもあるんだね。」
帰り際、家の玄関先のイチジクをいつきが指さす。
「あ、イチジクか。持ってけよ。でも、まだあんまり熟れてないわ。これ。」
「葉っぱでいい。」
「葉っぱが食えるのか?」
「いや、香りだけでいいんだ。」
変わってるなあ、お前は。
そう言って壮一は木から葉を一枚折っていつきに渡した。

壮一は、いつきが時々家に来ることをクラスや部活の友人たちには話さなかった。
話しても誰が信じただろうか。
何より、壮一自身がまだその驚くべき事実を消化できずにいた。
学校では相変わらず、いつきは無口のままで、壮一もあえていつきに学校内では話しかけなかった。

夏の長い日暮れの中、
壮一の家のリビングでバッハを引き終わったいつきは、自分のシャツの袖で汗を拭った。
壮一は、曲のタイトルと作曲家をいつきに尋ね、それをノートにメモする。
「すごいよな。クラシックもジャズもなんでも弾けるんだな。もうこれ、プロ並みだろう?進路とか決まっているのか?高校には行くのか?」

いつきは頷き、音大付属の受験を目指していると小さい声で答え、それを聞いた壮一を喜ばせた。
「いいね。それ、いいよ。」

「なあ、おまえさあ。そんなに大事な手を、あの時。」
壮一はペットボトルから麦茶をコップに注いで、ピアノの前に座るいつきに手渡した。
「なんで、あの時、手に怪我なんかしたんだ。ピアノが弾けなくなる可能性だってあったんじゃないか。」
ずっと今まで理解できなかったことを、直接、本人の口から聞きたくなった。
「たすけて、って言われた気がした。」
「それで、おまえ。でも、知らない子だろう?」
「僕より体も小さい、弱い子だったよ。」
顔を夕日に照らされて眩しそうにいつきはそう言った。

壮一は、何も言えなかった。
陽が翳っていくリビングに灯りを点けることもせず、ソファに座ったまま、動けなかった。

ブルーに染まっていく部屋の中、
いつきが、LPで聞いたばかりのReon RussellのA song for youを弾く。
静かな鼻歌が聞こえた。


それから間もなくすると壮一はサッカー部の練習が忙しくなり、大会が終わると本格的に受験勉強が始まった。いつきのピアノを聞けないことは残念だったが、物理的にいつきを家に呼んで二人で過ごすことは難しくなっていった。

一度、掃除当番の組がいつきと一緒になった。
視聴覚室の当番の日だった。
壮一が視聴覚室のドアを開けると、同じ当番に当った他の生徒数人が雑巾やモップを束にしたものをいつきの顔や体に押しつけて逃げていくところだった。

中に入り、視聴覚室のドアを閉めると、もう廊下の雑音は中には聞こえない。
いつきと二人だけなのを確認すると、壮一は教壇の横にあるグランドピアノに駆け寄った。
「おい、いつき、あと20分は大丈夫だぞ。」

いつきは視聴覚室の隅でモップから肩へと移った埃を払っている。ピアノの蓋を持ち上げ、中の赤いフェルトを乱暴に引き取った。
壮一はいつきに早く弾けと合図するが、いつきは首を横に振る。
「なんで。いいじゃないか。誰にも分からないよ。うちにあるやつより、ずっといいピアノだろ、これ。」
「いいよ。」
壮一は躊躇するいつきにピアノを弾かせようする。
防音とはいえ、誰かが聞きつけて、いつきがピアノ奏者であることを知るかもしれない。
それでいい。皆が聞けばいい。
彼が驚くべき素晴らしい奏者であることを、皆が知ればいい。
そして、悔いればいい。

「頼むよ。弾いてくれ。あれ、あれ、何ていう曲だったよ、あれ。」
壮一は題名が思い出せないその曲をハミングでいつきに知らせる。
「アラベスク」
「そうだ、それ。」

いつきは諦めたようにピアノの椅子に座った。
ドビュッシーのアラベスクをいつきが奏で始めると、視聴覚室がこれまで知らない宇宙の中の何処か別の場所になった気すらした。
壮一の中を音が流れ、彼の胸にある何か大きな丸いものが揺れ動いていた。
音に合わせて、身体が自然に揺れている。

いつしか、いつきの腕が静かに上がり、曲が閉じられる。

壮一は目に溜まっていた涙を、天井に顔を向けて喉に送った。
そして「悪かったな」と言い残し、視聴覚室を出た。


教室に戻った壮一は、視聴覚室でいつきにモップを押し付けていた生徒に、力いっぱい黒板消を投げつけていた。
「いてえ、何するんだよっ。」
黒板消が背中に命中した生徒が叫ぶ。
放課前の教室全体が一瞬凍り付いた。
我に返った壮一は、「ア。悪い。冗談だよ。」と言ってはみたが、教室の雰囲気は固まったままだった。

それがきっかけではあったのだが、そのことが無かったとしても、時間の問題だったかもしれない。

クラスメートの壮一を見る目が変わっていった。
南いつきと特別に仲がいい、それも、オープンではない、家にも行っているらしい、ということは尾鰭を付け噂になり広がっていた。

壮一は、媚びた連中に取り巻きのように付き纏われるくらいなら、クラスの中では一人でいたかった。
だから、どんなことも言わせておけばよい、と放っておいた。
所詮、あと数か月で卒業なのだ。

一方、いつきのほうは、露骨にオカマ、ホモ、などと罵声を浴びせられるようになり、殴る蹴るなどの暴行も公然と行われるようになった。
壮一に対して暴力を試みる生徒はいなかったが、皆の前で壮一がいつきを庇ったならば無駄に噂の裏付けを与えてしまう、と、壮一は我関せずを通していた。

いつき、キレろ。お前はそいつらなんかに馬鹿にされるような人間ではないだろう。
自分を護れ。正当防衛って知ってるか?いいんだよ、そいつらを蹴り返せよ。
心の中で、叫んでいた。

受験シーズンが始まると、登校する生徒は減り、中学校生活が終わることを誰もが自覚していた。自由登校になり、いつきを教室で見ることも無くなっていた。

壮一は、学区最難関の県立高校に当然のように合格した。
あとは卒業式を残すのみだ。

いつきは、あいつはどうしているだろう。

希望していた音大付属に受かっただろうか。
演奏の実技だけが入学試験ならあいつには楽勝だっただろうな。

壮一が部活も、勉強もしない週末を過ごすのはこの3年間で初めてのことだった。
ベッドに寝転がり、2階の部屋の窓から庭を見下ろす。
葉を落としてしまった枝だけのイチジクの木。
その枝の先端には小さな堅い芽。

ふと目をやった家の反対側の道のガードレール、そこにグレーのパーカー姿のいつきが座っている。
飛び起きて部屋を出て階段を駆け下り、家を飛び出す。

「おい、いつき。」
いつきはガードレールを降りる。

「なんだよ、家にまで来たのならさっさとチャイム鳴らせよ。遠慮すること無いだろう。」
傍に来た壮一にいつきが小さい声で言った。
「僕のせいだ。」

「え?何。何だって?」

「僕のせいで、君までクラスでのけ者になって、」
「え、何を言ってるんだ?何のことだ?」
「僕が君の家を訪ねたりすると、また。」
「おまえまで何馬鹿なこと言ってるんだ。下らない噂なんか放っておけ。俺がいつクラスののけ者?俺のほうが自分であいつらを遠ざけているんだよ。そんなことよりさ、高校は決まったか。」
「引っ越すんだ。」
「え、引っ越すって。高校は?音楽の学校か?」
「父親が、許さなかった。ただでさえ僕が女っぽく見えるのに、9割以上女子しかいない音大付属高なんて駄目だって。」
「え、どういうことだよ。」
「東京の男子校に行くことになった。一年生は全寮制だから、明日引っ越す。だから、卒業式には出ない。」

「どういうことだよ。おまえ、じゃあピアノは。」
いつきは首を横に振るばかりだった。
「だから、謝りに来た。島田君にいろいろ迷惑をかけた。ごめんなさい。」
「ちょっと待て。俺はお前から謝られる意味が分からないし。迷惑なんて何もない。何が迷惑なんだ。分からないよ。」

いつきが青白い顔を上げてようやく話した。
「誰かが、僕らがホモで、男同士で付き合ってるって、学校に言ったらしい。学校から電話があって、それで、それを聞いて父が電子ピアノを壊して捨てたんだ。きっと君にも迷惑が。」

壮一は視界が揺れ、血の気が引いた。
いつきのピアノが、そんな下らないことで。いつきのピアノが。

震えそうになる声を、努めて抑えながら壮一は言った。
「あ、あのな。うちの両親は誰かからそんなことを聞いてもどうもないし、何か言われれば俺が話をすれば済むだけだ。何一つ、おれは迷惑なんてかけられていないよ。誰が何を言おうと、どうでもいいんだ。俺のことはいい。でも、お前。」
「それなら、いいんだ。よかった。ありがとう。君の家でピアノ弾かせてもらったこと、レコード聞かせてもらったことを、ずっと忘れないよ。」

中学を卒業しさえすれば、いつきは煩わしいいじめから解放されて、音楽に没頭し、僕らはもっとレコードを聞いて、音楽の話をして、いつきが演奏して、俺がその演奏を聞く。
そんなことを信じて疑わなかった、そう信じて全てをやり過ごしてきた自分の愚かさに、頭を殴られたようだった。

坂道を下り去って行くいつきの背中を見ていた。
数分前、家でまたピアノ弾いていかないか、と誘うつもりで玄関を飛び出たはずだった。

レコードに繋いだスピーカーから、A song for youが流れる。

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