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東京残香 西新宿 初台


Kai  eau de parfum composed by Gaya Straza

********失われていく街の風情を香りに託す試み*******

風が頬を撫で、髪を乱す.
鼻先に感じる高い湿度と、微生物の気配.
季節が入れ替わる5月.
青く染まる街に夕闇が迫る.
芽吹いたばかりの欅の葉を仰ぎ見る.
あれから、さらに大きく育った街路樹.

横を通り過ぎていく消防車のサイレンと遠くの救急車のサイレン。
この街を離れた20年前の夜の光景とシンクロする。

あの夜と同じピアスが耳下で揺れる.
ピアスを入れていたジュエリーポーチに忍ばせた香水瓶からの移り香が不意に鼻先に届き、目を閉じ吸い込む.


それは、この街からはほど遠い風景に咲く南洋の花のエッセンス.
ジンジャーリリー、プルメリア、スイカズラ、チュベローズ.

海も緑もないこの街で、ある蒸し暑い夕方に思い出すこの香りだけを探していた.

20年前、
長時間にわたる幾つもの検査の後、診察室に呼ばれた.
瞳孔麻酔が効いていて、眩しさの余りほとんど目を開けてはいられない.
「やはり、黄斑変性ですね。ふつうは中年以降に見られる症状なのですが。22歳ですか。ちょと早いですね。」
そう言って眼科医はカルテを置いて言葉を切った.
哀れさの余りに続く言葉もないという事なのだろうか.
医師は目の図解版を私に指しながら症状を解説し、今後の視力の回復は見込めない事を説いた.しかしその時、私にはその殆どを理解することができなかった.
20代でその役目を放棄した私の視覚.
麻酔が解けるまで、少なくとも一時間は待合室で休むように言われたが、うわのそらに、呆然とそのまま大学病院のエントランスへ向かっていた.

瞳孔麻酔の効いた瞳では西新宿でタクシーを拾うことすらままならず、よろめき躓きながら足は自ずと人混みを背に十二社(じゅうにそう)公園へと向かっていた.
傾きかけた陽の眩しさから逃れるためであり、何よりも、途切れることのない一定の早さの人の流れから外れたかった.
初夏を迎えようとしていた蒸し暑い日.

樹が茂る公園の石段を登りきると息が切れ、頂上の段に辿り着くと倒れるように座り込む.

麻酔が切れない瞳は、眩しさで涙が溢れて止まらない.
目を開けることができない.
バッグからハンカチを取り出そうとしてもうまくいかず、その時、自分の手が震えていることに気付いた.

視力が極端に落ち、視野の中に何も映っていない穴があることに気が付いたのは一月以上前の事.もともと、子供の頃から視力は悪く、目が悪い、見え難いという状況は私には普通の事だった.
比較対象もない自分の感覚器の状態を、異常だと意識する機会も存在しなかった.
私の視力低下が止まらないのを心配した馴染みの眼鏡屋から再三診察を受けるように言われ、仕事を休み大学病院を受診することになった.

改めて受けた診断で、それは回復することのない眼の疾患であると、自分に下された診断は、まだ若かった私には現実感が薄かった.
公園の中の噴水の音.
喉の渇きを感じている.
なのに、今は何も呑み込めそうにない.
視界を歪ませている流れる涙に、溺れているような気がした.
いや、本当に溺れている.
息ができない.
小学校のプールの授業でクロールで息継ぎをし損なった.あの時と同じ.
息ができない.

「どうかしましたか。大丈夫ですか。」
後ろから、足音と声がしたのは覚えている.
しかし、私は振り向くこともできず、視界にはモノクロの砂嵐が映り、身体は石のように重い.その重みに耐えられず、頭が地面に落ちた.

何も聞こえなかった.
誰かが、私の頭を砂だらけの地面から持ち上げ、柔らかい布の上に乗せてくれたところまでは覚えている.
その柔らかな布からは、南洋の花の香りがした.

救急車を呼んで救急隊員に引き渡せば、公園での急病人対応なんてそれで済んだものを.
公園で気を失った私を、救急車に同乗して病院にまで運び、意識が戻るまで付き添ったのが「久高義清」だった.
見ず知らずの私のことなど、放っておけばよかったのに.
ここはそういう街.東京なのに.

処置室で点滴を受けていた私の意識が戻ると、久高は看護師にそれを知らせ去って行ったそうだ.
だから、その後、看護師を通じて彼、救急通報者で付き添った人が久高という男性であったことを教えてもらうのにはとても苦労をした.
そして、「久高義清」という名前を知ったところで、その人の電話番号や連絡先までは分からず、名前を知った事で、一言も礼を伝えられずにいることが更なる苦悩の種となり、消えることが無かった.

またいつか彼が通りかかるかもしれないと思い、勤めていた外苑前の花屋を休める日には同じ時間帯に十二社公園にも行ってみた.

会えるわけもない.
この広い街の中、多くの人の中から、そもそも顔すらよく知らない人をどうやって探したらよいというのだろう.
いまや、誰もが探偵になれるくらいに個人情報が撒き散らされたSNSにその名前を検索にかけてもその人はヒットしない.
その名前だけが片の付かないまま残された.
久高義清.

私の目の障害は急性のものではない。
その後も急速に悪化したわけではなく、単に視野が徐々に狭くなっていくが、
強い矯正を必要とする視力の毎日そのものは何も変わりはしなかった.
しかし、いずれ近い将来には、車の運転もできなくなるのかもしれない.
そんなことを思いながら、初台にあるコンサートホールへ花の配達に向かっていた.

フライヤーやポスターを眺めながら楽屋通路を抜ける.
花を配達する先はライブハウスやコンサート会場が多い.
そこには様々なフライヤ―が置かれて並べられてる.
同じものが一つとない公演のフライヤーを集めることが、この頃の趣味だ.
実際に公演に足を運ぶ機会はほとんどないが、集めたフライヤーを部屋で眺めることは楽しい.
美しいものを選って、ラックに並ぶフライヤーをそっとエプロンのポケットに差し入れていく.

ホールのロビーにアレンジフラワーを運び終わり、関係者通用口に向かい、守衛所で入館記録に退出時刻を記入する.


その時、入館記録簿にその名前を見つけた.
『久高義清』
鼓動が大きくなる.
落ち着け、と自分に言い聞かせる.
同姓同名の別人の可能性だってある.
そんなにありふれた名前では、ないと思うけれど.
ずっと探していた4文字の漢字.

入館記録に記された、名前の横の用件欄には「調律」とある.
退出時刻が記されていないということは、まだ館内にいるのだろうか.
入館記録をいつまでも書き終えない私に、守衛は不審な顔を向けていた.
「すみません、忘れ物をしたので、もう一度入館させてください。」

再度入館証を付け、館内に引き返す.
しかし、広い館内でたった一人『久高義清』をどうやって見つけられるのか、当ても無かった.この館内にいても必ずしも通路を歩いているわけでもなく、どこか部屋の中にいるのかもしれない.
「調律」
何を調律するのだろう.
施設か設備機器だろうか.
いや、ここはコンサートホールだ.
楽器の調律だろうか.
ピアノ?
当てずっぽうだった.
グランドピアノのある場所.
ホール.
しかし、ホールへの入り口は施錠されていて、ドアを押しても開かない.施錠されているドアを無理に押していると、ふと頭上の防犯カメラが視界に入った.
行き違いで、彼はすでに建物を出てしまっている可能性は?

そしてその時、自分の愚かさに気が付く.
館内ではなく、通用口で待っていたらならば『久高義清』は退館時に必ずそこを通るではないか.
慌てて、通用口へ向かおうとするがどこで道を間違ったのか、通った覚えのない通路に出た.

その時、何処からかピアノの音が聞こえる.
同じ鍵盤が繰り返し叩かれる.
ピアノの調律だ.
その部屋に近づいた.
「楽屋 控室」. 

そのドアの前で、中から人が出てくるのを待つ.
もし中にいるのが『久高義清』とは関係の無い人違いだったならとんだ笑い種だ.
いつ終わるのかも知れない調律を待ち続けた.

鍵盤を叩く音を聞きながら.
同じ音にしか聞こえないけれど一定の間隔を開けてそれは繰り返された.


廊下を通り過ぎる人は、廊下に突っ立っているエプロン姿の花屋を不審そうに眺めて去っていく.

夕日の橙色の光も、いつしか消えそうなオレンジ色の筋となってブラインドから溢れる.

エプロンの革製のポケットに手を差し込むと、今朝の花の仕入れで零れたジンジャーリリーの一輪に指に触れた.
まだ瑞々しい蕾.
取り出して鼻に近づけると、あの日、倒れた私の頭を包み込んだ柔らかな感触はそのままよみがえった.
この香りだ.あの時、この香りがしたのだ.

鍵盤を叩く調律の音が止まり、耳を澄ましていると曲が聞こえてきた.
知らない曲.
柔らかな旋律.

翳っていく夕日の光とピアノが奏でる音の中、南国の海の温かい潮流に巻き込まれていく.まるで白昼夢を見たかのよう.

突然楽屋のドアが開いたので、私は微かに飛び上がってしまった.
「あ、あの」
「はい。」
「あの、私、真田ミチと言います。」
「はい。何か.御用でしょうか。」
初老の男性を想像していた.
けれどその人は初老などではなかった.
ブルーのシャツとジーンズ姿.
無造作の少し長い髪。
「もしも、違ったらすみません、あの3か月くらい前、十二社公園で救急車を呼んでくださった方ではありませんか。」
緊張の余り、果たしてきちんとそう伝えられたのかすら自分でも分からなかった.
「ああ、もしかしてあの時の。」
「久高義清、さん、でしょうか。」
シャツから伸びた腕は大きい。男の人の腕だった。 
「ああ、はいそうですが。でもどうして.ここに?身体はもう大丈夫ですか.」
「あの、すみません。ただお礼を申し上げたくて。それで、」
私はなぜそうしたのか、今でもよく説明できないのだけれど、何故か手にしていたジンジャーリリー一輪を彼に差し出し、
そして、僅かな言葉だけを慌てたままに交わし、何度も何度も頭を下げ、私は走るようにその場を去った.

ようやく通用口に駆け込み、入館記録簿に退出時刻を記入する。
「随分長くかかったね。忘れ物は見つかったの?大丈夫?」
守衛は忘れ物を取りに戻っただけのはずの私が、館内に長居した理由よりも、きっと顔が真っ赤になっていたことを怪しんだのだろう.
駐車場へと急ぎ、花屋のバンに向かった.配達のある日だったとはいえ、店を留守にした時間は長い.店長に叱られる事を覚悟したが、帰る道の夕暮れの空の下、窓を全開にして欅並木を抜ける風を胸の奥まで吸い込んだ.2度とない空気だと思えた.

「久高義清」に遂にお礼を伝えることが出来た.
感謝の気持ちが伝わったのかどうか、全く自信はなかったが.
あれ程長い間、頭の中にしか居なかった『久高義清』の実物を、私はほとんど顔も見ずに、逃げるようにまるで強制的にその場の幕を引いたようだったかもしれないが.

ーーーーーー

あれから倍の歳を重ねて、フラワーアレンジメントを学び、いまでは南国の花に特化した店をやっている.絶望していた20代はあっけなく過ぎ去った.左目の視力は下がる一方だったが、緩慢な症状の進行のおかげで病の認識は薄かった.


土の匂いが強いアジアの花と比べ、軽やかなハワイ産の花卉も扱うことが増えたため、ハワイに小さな家を手に入れ、東京に商用で滞在する以外ではそこで暮らすようになっていた.

東京での打ち合わせを終えた夕方、電車を降りると
幡ヶ谷の駅に貼られた、幻想的なフライヤーが目に留まる.
森の中に据えられたグランドピアノの写真.
そこには『ピアノの魔術』とある.そしてその中に目立たないフォントで印刷された文字は、『久高義清』.
あの人だ.

私はすぐに1週間後のその公演のチケットを予約していた.

調律師だったあの日の彼は演奏家になった.
花屋のいち従業員だった私は、自分の会社の代表になった。


かつては何度もアレンジメントフラワーの搬入で来たオペラシティ.
もう作業服にエプロン姿ではなく、ブラックのレース刺繍ワンピースと小さなビーズポーチ.
年相応にメイクもしている.
コンサート開演前のロビーで、忘れていた高揚感を味わう.
久高は、一体どんな演奏をするのだろう.
「ピアノの魔術」とは.

コンサート中、久高はほぼ満席の客席に一礼をする以外、言葉を発することはなかった.
その必要がないほどに、饒舌な演奏だった.
バッハ、ジャズ、オリジナル曲.

かつて、このホールの裏の楽屋で一度だけ会った、久高、間違いなくその人だった.
決して派手ではない、むしろ内向的にすら感じられる彼自身の佇まい.

その演奏は
観客の筋肉を支配し無意識に身体を揺らす程の影響力をもっていた.
音楽に対するひたむきな、力だった。

閉演後も頭の中に流れるピアノの旋律に酔いながら、オペラシティからパークハイアットまで甲州街道を歩く.
電車には乗りたくなかった.
夜空の下をこの西新宿の空気に晒されていたかった。
うねりながら天へと上る龍の影か、夜に浮かぶ西新宿ジャンクションを横目に街の喧噪、アスファルトとテールランプの赤い列
胸深く、東京を吸い込む.


湿った風の中でプルメリアの香りを嗅いだ気がした。
コンクリートが囲む喧騒の雰囲気には全く似つかわしくない南国のイメージ。
しかし、今晩、南国の木々の茂みを思い出すこの東京の湿度の下、
かつて、穢れのない太平洋の亜熱帯の島々に吹く風を思い出すのには十分だ.

フラワーデザイナーとして独立し自分の店を持つ事への憧れあこがれだけに振り回された試行錯誤の20代.

気が付けば経済力も判断力も備わった.
そして、あの頃と同じ道を歩いている.
いつも覗いていた、ペットショップはもう無い.
あの頃の憧れを越えるものは、その後、現れることはなかった.
育ちすぎたケヤキの街路樹、街灯.

職が保証され安定した収入が継続すること
揺るがない家庭生活
社会の同調圧力に逆らわずに役目を遂行する能力
世の中でうまくやること
そんなことを手に入れなければならないのだと、勝手に思い込み、
それを手に入れられない現実に、苦しんでいた20代.

そして視力を無くす事を告げられた.

会社を立ち上げ回すことに精一杯になっていた頃.
仕事に追われ時間の感覚はなくなりいつしか、いつ、何を食べたいのか、何を美味しいと感じるのかすら分からなくなっていた.
低血糖で倒れる前にコンビニで買った甘いものを口に入れる.
それは食欲と関係なく、一旦口に運ぶと、終りがない.
人の2倍も食べたあとにも満腹感がない.
そして丸一日空腹感も感じないことがある.

そうして手に入れるべきはずのものが、手に入った時には、私の感覚はどこかに失われていた.
喉は押しつぶされ、窒息しそうになっていた.

その晩の久高の演奏が、何かを溶かし、私を開放したのが分かった.
失っていた自分の感覚が、身体の奥で震えるのを感じた.
彼の強く繊細な感覚が、人の感覚に響きを生む.

滞在していたパークハイアットの部屋に戻る.
ハイヒールを脱いでベッドに仰向けに倒れる.
その窓から見えるのは輝く地上の灯りと、そこにぽっかりと闇を落とす代々木公園や神宮の森.
月明かりが作る影.
自分が感じていることを、ひとつひとつ取り戻す.

肌が感じる寒さ、シーツの感触.頬に落ちる涙.月から届く光の強さ.


端末が小さく震え会社宛てメール着信を知らせる.

「今日はお花をありがとうございました  久高」

会社名で楽屋に送ったのは南国に咲く花のレイをアレンジした花のリース.
少しの間は強く甘い香りが愉しめるはず.


シャワーを浴びてベッドに戻ると再び久高の名前で通知が届いていた.
「一度お会いしたことがありますね。
花の香りで思い出しました。あなたといつかどこかで会えたらいいとずっと思っていました。」

東京でしか起こり得ない小さな奇跡は、微かな香りに閉じ込められている.

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