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Short story_狭間に棲む者

龍涎香
動物性香料原料

香りから想起される物語。物語から立ち上る香り。貴方はこの物語からどんな香りを感じますか。

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闇の中からのみ生じる光、光の下に創られた闇、その境界に棲む者がいる。魔でも神でもないその者に出会ってはならない______________________

白い3階建ての建物の出入口は、黒服達に覆われて見えない。30分も前からこの状態だ。
整然と並んでいた人の集団に突然、動きがみえた。
呼吸を止めて、その隙間に目を凝らす。
建物のドアが開き、一際明るい髪の色、真っ白なスーツが通り抜ける。頭一つ分抜き出たその長身、澤井だ。
その姿は馬鹿馬鹿しいまでに派手で目立つ。

これが、これまで全く人目を寄せ付けずにいた、私が探し続けてきた姿なのか。ジャングルの中でとうとう伝説の珍鳥を見つけたかのような興奮を覚える。

私の横のカーテンの影で、カメラのシャッター音が響く。

山岸さんが望遠レンズを窓の外に向けて構えている。どんな写真も澤井の纏うこの異様な雰囲気までは伝えられないだろう。

澤井の姿は視線の中に長くは留ることなく、瞬く間に黒いバンに乗り込み消えた。僅か数秒のことだった。彼の薄いブルーのサングラスの向こう、その鋭い視線が一瞬こちらに向いたかのような錯覚を覚え、思わず壁に身を避けた。

この半年間、幾つかの全く異なる性質の犯罪捜査線上に頻繁に澤井啓二という名前が上がるようになった。

その検挙に至った一つ一つの犯罪はどれもさほど重大とは言えないが、とにかくその多くの数と種類の犯罪において、なぜ一人の人間の名前が共通して挙がるのか、誰にも分からなかった。微細な詐欺、監視対象国への医薬品密輸、特殊詐欺の組織犯罪から、公職選挙法違反事件まで。ところが、口から口へとその名は伝わり、聞かれるだけで、当の本人が見つからない。

検挙者も、電話やメールでのやり取りが多く、直接会った事が或る者は2名のみだ。
前科記録がなく、鮮明な顔写真も出回わっていない。
捜査員たちは彼の実在すら疑いだしていた。

確実な姿を捉える、それだけのために、これほどまで時間と労力を費やしているのは異常だ。
しかし、実際彼をこの街の中から見付け出し、追跡することにこれまで成功していなかったのだ。あれ程強い自己顕示欲そのものの外見、まるでスター映画から抜け出てきたようなスタイルをしていながら、彼は殆ど人前に現れない。

彼が何らかの活動をしている場や、被疑者や観察対象との直接接触の場を誰も確認できなかった。
澤井の住所とされる渋谷区の住宅はもはや空き屋だ。ようやく滞在先とみられるホテルを突き止めても、追跡中にいつの間にか姿を消す。
下浅草の田町組のトップが澤井を相談役に据えていると公言したという情報を得て、いちかばちかこの一か月近く田町組のビルを張っていた。
そのビルがよく見える、交差点の斜向かいの30mほど離れたアパート2階。
田町組の幹部が集まるというこの日、ようやく今夜澤井の姿を事務所ビル前で捉えた。

「用心したほうがいい。あいつ、人からの視線に敏感だ。
カメラを降ろした山岸さんは静かにそう言った。
「けれど、あれほど目立つ恰好をしていては、無駄に人の視線を集めているようなものです。視線を向けるなという方が難しい。芸能人か、あるいはそれこそ、堅気ではない。」
「意図的にそうしているのだろう。一度、そうだとみれば、レッテルさえ貼ってしまえば、普通の人間はそれ以上は深く知りたいとは思わない。むしろ、あれじゃ視界に入った次の瞬間には目を反らす。派手な警戒色の生き物と同じだと思えばいい。触れないだろう。」
「それ以上に探ったならば?」
「こちらが向こうに関心を向ければ、こちらも向こうから気付かれることになるだろう。何故あいつのことを知る人間が異様なほど少ないか、想像したか?あいつの人物を知った時は、消される時だ。」
その通りかもしれない。
「一体何が目的でこれほど多くの犯罪に関わっているのでしょう。どれも大きな報酬が入る仕事ではない。彼にはリスクになっても何の得にもならない。自分の存在や権力を派手に見せつける様子もない。何を望んでこれ程多くの犯罪の手を引くのか。わざわざ起きなくてもよい犯罪を、わざと引き起しているように見える。」

公式には、彼を直接捜査対象にできる犯罪容疑の証拠は未だない。しかし、放置しておくことはできない。複数の逮捕者の口から名が挙がる彼を調べること無しには、異なる事件の糸を束ねる真実を明かすことが出来ない。
澤井を探ろうとする過程で、捜査にまで至ってはいないが、複数の失踪人もでている。そこにはおそらく既に存在していない人も含まれるだろう。
彼を中心にした禍々しい流れを感じる。
しかし、その中心である彼を、見ることができない。ブラックホールのように。

2か月前、副総監室に呼ばれた。
組織の中にあって、誰にも何処の部署にも所属していない私には、副総監から直接任務が伝えられる。公にできない内容の操作を任される特殊捜査員。私のような人間が、この組織には幾人かいる。いや、知らないだけで実のところ、とても多いかも知れない。
「協力者を使って、澤井を探ろうとしたが、その協力者が消えた。」
副総監はそう言った。協力者が内部と関わりのある人間なのか、それとも完全な民間人であったのかには触れない。
「たかが一人物の調査だと、高を括らないでくれ。今回のことが誰にでもできる仕事なら君に頼まないよ、山口君。これまでになかったケースだ。」

副総監室のドアを開け廊下に出る。
手の中で筒状に丸めた澤井啓二についての資料。経歴や素性が数行のみ記載されている。
本籍、埼玉県。関東圏内の普通高校を卒業、地方の公立大学を卒業し上京、民間会社に就職、退職後職業不定とある。前科無し。
何を根拠にして、この資料が作成されたのか、誰が作成したのか、もはやどうでもいい。明らかに偽装された経歴であり、ここに書かれている戸籍が実際に本人のものなのか、澤井啓二という氏名が本名なのかすらも、疑わしい。
意図的に流された虚偽の情報が存在すると思われる。複数の名前を使い分けている可能性すらある。資料には解像度の悪い写真が添付されていた。おそらく防犯カメラ画像からの出力。
役に立たないその資料を潰すように折りたたみバッグに入れた。

取り調べの中で澤井の名を口にした逮捕者数人から聞き取りを行うために、拘置所に向かう。2課が捉えたインサイダーの容疑者の口からも、4課が捉えた組員の口からも彼の名前が出た。投資家は彼を神と呼び、澤井の名前を出すだけで顔色を変える政治団体の党首もいる。概して、誰もが彼の名前を口にする際には、憧れや陶酔を匂わせる。その魅力の正体は知れない。日本人離れした、その外見だろうか。
「一度だけ会ったよ。うちの先生と話すときにさ、たまたま俺も一緒に連れて行かれたんだ。驚いたよ。向こうは一人だ。運転手もいない。真っ白な一つ寄せ付けない完璧な装いをしていて、街で派手に遊ぶ様子もないんだ。なんか、すげえ高そうな香水の匂いがしたよ。男の俺でも惚れそうだよ。何て言いうのか、色気か」
派手な成りからは、澤井は羽振りのよい組織の構成員にも思えるが、違う。もちろん、どこかの幹部でもない。共通項の無い複数の組との関係をもつ。何の理由からか、組織やその周辺に対する彼の影響力は絶大のようだ。
しかし彼が何者なのか、誰に聞いても直接会ったことはないと答える。いつから現れたのかも、数年前と言う者も、数か月前と言う者もいる。
人によっては、彼を天才相場師と言い、地面師と呼び、高級閣僚の親戚筋だと言う者もいたが、結局いずれにも根拠がない。ただ、物事は彼の言うとおりに進む、そう信じられていた。
「澤井さんが、相当切れ者だってことは、俺にだってすぐわかったよ。うちの先生も、あいつには一目置いていた。だってさ、何もかも澤井さんの言う通りになるんだよ。」
違法な事であろうとも、いかに複雑な事業であろうとも、彼の指示に従ってさえいれば、いなくなってほしい人物は消え、法的な障害は無くなり、望んだように金は流れる。

「俺は、あまりいい予感がしないよ、この仕事は。」
山岸さんが車の中で呟いた。
「そうですか。」
「健全じゃない。」
「健全って、犯罪に健全も健全じゃないも、ないでしょう。」
ちがうよ、と山岸さんは笑う。
「健全でないのは、あんただよ。澤井を探ろうとして、澤井に似てきてやしないか。」
「え、何ですって。」
私は、少し嘲りを含んだ顔で聞き返した。時代外れの派手な澤井の姿を想った。
「どこが、ですか。私はあんなに派手ではないし、意味も無く不特定の犯罪者たちを惹きつけたりしませんよ。」
山岸さんは、何の味気もない黒いタートルにウインドブレーカーとジーンズの私の姿を一通り眺めて笑った。髪は一つに束ね、化粧もしていない。
「たしかに、あんたは派手ではないが。その先はあんたが自覚していないだけだよ。常人からすると、得体が知れないと言う意味ではあんたもあいつと同じだ。」
澤井が乗ったバンのNシステム情報から、到着先の都内のホテルが分る。
滞在先の一つとみられていた都内のホテルだ。
「実際、上の連中たちは皆あんたに何かを強く期待している。特殊捜査員に選ばれるほどの業績は、あんたには少なくとも公にはない。すまないが、調べさせてもらった。あんたがこの件を担当していることに、なんというか、こうなるしかなかったような気もするし、これから何が起こるのか読めない危うさがある。」
私は山岸さんの言葉を聞き流し、運転席に座った。
「澤井と一緒で、表からは見えない目的があるのは同じだろう。奴の検挙なんか、本当はどうでもいいんだろ、色んな意味で、厄介だ。」

全て、山岸さんの言う通りだった。
この仕事はこれまでの他の仕事とは意味が違った。
犯罪を生み出すのは人間の欲望。

それは金銭欲であったり、愛欲であったり、怨恨であったりする。近年では、自殺代わりの他殺も起こる。

自制の効く人間は、リスクに考えが及べば自制できる。自制の効かない人間を犯罪に導き、社会システムの外に突き落とすことは容易い。もし、そんな目的があれば、だ。

しかし時折、世の裂け目から闇が覗く。初めは小さく些細なもの、しかし、次第に社会を覆う闇が漏れる。目的の無い犯罪。闇にとっては金銭や権力の誇示といった人間の欲望などどうでもいいのだ。澤井の存在、それが今、闇でありこの街に零れ出ている。
神々しい光すら纏っている澤井の姿と、それに惹きつけられる多くの俗欲。闇夜の火に集まる蟲。
その禍々しさの正体が何なのか。私は末端の犯罪者同様に、今、彼に惹きつけられている。それを山岸さんには隠し通せない。

澤井を追うにあたっては、副総監からは精鋭の部下数人と班を作って動くよう言われた。
しかし、前任者の失敗を想えば、メンバーを増やすことでの情報漏洩を危うんだ。
支援室をうまく利用すれば単独でも捜査できると主張した私に、ひとりだけ山岸さんが付けられた。
山岸さんは既に警察組織を退職し、弁護士事務所の用心棒をしていたが、嘱託として呼び戻された。鑑識出身で警視正にまでなった人だ。所轄署長も経験し、そのまま静かにしてさえいれば叙勲のはずだったのに。検察を巻き込んだ内部の不正を、暴くだけ暴き、そして全てを背負って依願退職した。命を狙われてもおかしくはないほどの危険を冒せる度胸と、今日まで生き延びているという事実が裏付ける、知恵。
副総監が知る限り、もっとも勘が働く慧眼の持ち主、をパートナーとして付けられたわけだ。
だから山岸さんの言葉は重かった。

澤井を公に捜査対象にできる唯一の可能性がある罪状としては、覚せい剤と向精神薬の製造に関わる指示だった。しかし、他の嫌疑同様にまだ証拠はない。しかし、売人の元締めの口から輸入代理店の社長としてその名前が出ているに過ぎない。彼に流れているであろう資金の流れを掴む上では外せないが、しかし、それは彼の行っていることの一角に過ぎない。今は微罪で彼を捉えるよりも、彼の周囲の構造の実態解明が優先する。

朝の新宿公園のベンチ。
一時間以上も座っていると芯から躰が冷えてくる、3月の空気はまだ寒い。
悴んだ鼻も感覚を失いそうになった頃、隣にツイードのジャケットを着た白髪交じりの男が座り、帽子を深く被りなおした。
クリーニング屋のCだ。
彼は何でも洗う。
金も人も。
大口の取引相手は裏社会、そして公安。
Cがコンビニのコーヒーの紙カップの下に雑誌を敷いた。
ベンチの上の私との間に置かれる。
私は、それを手に取り、ページを捲る。今まで見た中では、一番鮮明な澤井の写真が挟まっている。食事の席での横顔だ。その容姿は、一目見ても堅気の人間のものとは言えない。彫像のような横顔。澤井の肩に髪の長い女がしだれかかっている。

「相当色男のようにみえるけど、特定の女はいるの?」
「さあね。こんな成りなら、毎日女とりかえていったっていいくらいモテるだろうけどね。どうだ、あんたは。何とも思わないかい。」
私に向けられた下卑たその笑い顔には、犬歯がない。
「この男に興味があるの。けれど、そういう興味と違う。」
「だろうね。そういう意味では、男の俺だって興味があるさ。でも、コレからは出来るだけ離れているに越したことはないよ。俺だって、まだしばらくは五体無事でいたいからね。」
「写真のように、彼はいつも白いスーツなの?随分ファッションコンシャスね。こんな気障な格好が似合うなんて、自分のスタイルをよくわかって、ほかからどう見えるかもわかってる。だから、肉声を聞くこともできないほど彼から距離があったとしても、皆彼に向かって集まっていく。輝いているものには、皆惹きつけられていくから。でも、貴方は惹かれながらも、避けている。賢いわ。」
「接触があった人間を一人特定した。正確に言うと、女、じゃないけれど。」
「十分よ。今は、情報なら何でもいいの。欠片でも。」
”ハナカガミ、カオリン”、そう書かれた紙片を受け取った。
「あれが、単なる洒落者の色男に見えるか。あれはさ、覚悟なんだろうよ、あれで。昨日も、明日もない人間に見える。いや、俺には人間に見えない。」
「彼は純粋な日本人なの?もし、何か知っていたら、全て聞きたい。」
「顔立ちからか、それとも、日本人なら、あれほど目立つ奴ならどこかに情報があると思っているのか。残念ながら、報酬を頂けるほどの話は今は持ってきてないよ。けれど、ただ、俺にはわかる。それで、あんな成りして、あんなに輝いちゃって、明日にでもこの世から消える気でいるんだろうね。何処から現れた奴なのかも分からない。あれは本物だよ。気をつけな。」
冷めたコーヒーと紙幣の束が入ったハンバーガーショップの袋をベンチに置いてその場を後にした。

ゲイバーに女が入る時は、店の冷やかしか、観光客か、おなべ、つまり同業者といったところか。
ハナカガミと青いネオンでデコレートされたドアを開けた。
「いらっしゃいませ。あら、おひとりですか?」
独りで入店した私はおなべと認識されたか。
「ウイスキーの水割りをおねがいします。なんだか今日は誰かと話しながら飲みたくなって。」
ソファが大きくへこむほど、勢いよく私の横に座る。つけまつげが歪んだ大柄なゲイは大きく頷いた。
「そういうことって、あるわよね。」
他愛もない話をしながら差し出された水割りに口を付けるふりをした。
「ねえ、今日カオリンって、いるかな?」
「カオリン、ああ、先週辞めちゃったのよ、知り合いだった?」
「うんちょっとね、会えたら声を掛けようかと思ったけど。前に、上のコンビニで困ってた時に少しお金貸してくれて、少しだったけど返したくて。この店に勤めてるって聞いていたから。連絡先とか知ってる?」
「あら、そんな事するなんて、やっぱりカオリンは。」
「やさしい子なのね?」
「ううん、羽振りがよかったの。このところ急にね。だから3丁目なんてもう用無しになったのかなって。」

染みの付いたコースターの裏に書きなぐられたカオリンの電話番号に何度も電話をかけた。応答がない。
携帯端末契約者特定の手続きをすれば、警察が調べた足跡が付く。できるだけしたくはなかったが、仕方がない。
契約されていた住所に赴くと、引越し業者のような作業員が出入りしている。
引越しにしては様子がおかしい。作業員に指示をする男は不動産屋だと名乗った。
私は保険の外交員で更新の手続きでカオリンを訪ねてきたと偽った。
「自殺、なんて近頃はもう珍しくないし、私も慣れましたけど、後始末は誰がするんだって話ですよね。まあ、今度のは、宅配業者が見つけて発見が早かったし風呂場だったので助かりましたよ。これがキッチンだった時には、もう。」
青白い顔をした不動産屋は、こちらが聞いていないことを早口で話し始めた。
「睡眠薬を飲んで風呂に入るっていうのは、一番簡単なんでしょうね。さっき帰った警察の人もそう言ってましたよ。実際多いらしいですよ。」
未開封のAmazonの段ボールがふたつ積まれている。再配達の札。自殺するつもりなら宅配便の再配達は頼まないだろう。
まさか、私がカオリンに接触することが読まれ、先を越されたのだろうか。
後頭部を冷や汗が伝い、喉の奥がひりつく。
見えない相手に、私は既に見られている。

彼の名だけを口にする人間は、彼からは遠い。
直接澤井本人に触れた面々に近づきたかった。しかし、近くに寄ると、その点は消される。
山岸さんが危惧していた通りになった。

数日後、張り込んでいたホテルからタクシーに乗り込む澤井を確認する。
慌てて車で追った。今度こそ、何が何でも接触先を知りたい。
西麻布のビルの地下のバーに入って行く澤井を認め、追って店に入る。相変わらず、つま先まで白のエナメルでその長身に映えるスーツ姿。この闇は光を纏っている。
奥のボックス席で、恰幅のいい男性とその連れ合いの女性と澤井が向かい合っている。澤井と会っている男女は何者か。一見、裕福そうな堅気だ。
カウンターでノンアルコールを頼む。そして、澤井と向かい合っていた男女の画像を端末に取り込んだ。

顔認証データベースが既に、澤井と会っている対象が都内で開業する医院の医院長とその夫人であることを調べだしていた。
澤井たちのテーブルにコンパニオンが酒のボトルを運ぶ。長時間になりそうだ。
ここには山岸さんを呼び、二人でいた方が怪しまれないかもしれない。
電話のために席を立つ。
しかし、山岸さんの到着を待たずに、澤井は男女を席に残し立ち上がり店を出ようとする素振りをみせた。
それを追おうと、店を出ようとした時、突然激しい眩暈に襲われた。
飲んだのはただのレモンのソーダだったはず。
動悸がひどく大きく耳に響く。思わず街路樹に手を伸ばし身体を支えようとするが平衡感覚がない。
気を失う寸前、後ろから両脇を抱えられたのを感じた。薄れる意識の中、辛うじて、嵌められたのだということだけは分かった。


肌の上を空気が動くのを直接感じる。心許ない感覚。無防備な状況を本能的に感じ取っていた。現実ではなく、夢なのか。目を開ける力がない。辛うじて呼吸だけが出来ている。
背中が強張っていて痛む。
寒い。
次に意識が戻った瞬間、気が付いた。私は何も纏っていない。薄暗い部屋の隅のスタンドライト。ブラインドが下ろされている窓。

「目覚めたか。」
足音が近づいてきた。
漸く目を開き、少なくともここが病院のベッドの上ではないことが分かる。
目を開くと、初めて会う男、いや、正確にはその顔は記憶に刻まれ、ずっと捉えたかった顔だ。澤井だ。まさか、何故。
「寒いか。」
私の肩に熱のある手のひらが添えられた。
その手には私の冷え切った皮膚が捉えられている。
澤井は自分が纏っていたニットのカーディガンを脱ぎ、なぜか裸の状態の私の肩に掛けた。
澤井の体温を残した服の温もり。その瞬間、香りが舞った。それはありきたりのコロンなどの香りではない。もっと、深く、重く、甘い。

「描いていた。」
澤井はイーゼルに向い、スケッチブックを手にしている。それをこちらに向け、言った。
「どうだ、良く捉えているだろう。君の内面までも。山口美佐希。」
その低く響く声に、漸く恐怖を覚えた。

澤井はそう言って私にデッサンを見せた。何も纏っていない横たわった自分の姿。
「服を返して。」
「悪いが、全部処分したよ。」
「え。何ですって。」
「代わりを用意している。今持ってこさせる。」
そう言って澤井は電話を取り、誰かに指示をした。
「ここは何処。」
「場所は言えない。だろう?分かると思うけれど。」
私はこの場所を記憶し、そして此処を生きて出ることが出来るのだろうか。
「私を消すの?」
澤井は笑った。
「君には何か、俺に消される理由でもあるのか。」
そう言って、彼は薄暗い間接照明に照らされたカウンターで水割りを手にする。

服を脱がされ所持品はない。
何をどこまで知られてしまっているのか、私が尾行していた意図はばれるはずがない。彼に私が知られる理由を思いつかない。調査は非公式で、目的の漏洩はないはずだった。
万が一を想定し、IDカードは車の中だ。
今は端末さえ持っていれば、IDの電子証明はいつでもクラウドから読み込めるため携帯することがリスクになる場合は身に付けない。
だから身分が澤井に知られているはずはないが、彼が私をどう判断しているのか、見当がつかない。

ドアがノックされ、スーツ姿の男性が大きな紙袋を幾つも部屋に運び入れた。Dior、Chanel、FENDIのロゴが並ぶ。
「俺が選んだんだ。着てみて。」
リボンのかかった箱を開くと下着からパンプスまでが揃う。
何でもよいから裸の状態に何かを纏いたい。
ブルーのドレスはジャストサイズだ。一体、どれほどの時間の間にこれだけのものを揃えたのだろう。これが計画されていたことなのか、突発的な事件なのか、分からない。
「似合うよ。」
「電話を、させて。」
澤井は首を横に振った。
私は絶望する。
私を消すのに、身元不明の水商売の女性の自殺と見せかけるのは簡単だ。
「何が目的なの。」
「君と同じだ。」
澤井は、グラスに水を注いで私の手に渡した。
「俺に会いたかったはずだ。」

「なぜ。何故そう思うの。私はあなたを知らないわ。何故ここに連れてこられたの?用が済んだのなら、デッサンも終わって気が済んだのなら、もう、帰してほしい。」
私はとぼけた振りをする。
「残念だが、君は僕を知っているし、僕も君を知っている。」
「私は知らないわ。人違いよ。」
「知っているよ。ずっとね。ずっと昔から。」
部屋に重く甘い香りが薫る。その香りは強くなる。

その煙の向こうに空間の切れ目を見た。
「昔って、いつなの。会ったのか、覚えてないわ。」
「会っていたさ。それからいつも一緒だった。」
「どういうことなの。意味が分からない。」
「君が呼んだんだ。僕を。実体なんか要らなかったのに。君がこんな成りを用意して、俺を呼び寄せた。」
「何を言っているの。」

彼が香炉を手にしていた。複雑な彫像が施された球体。
それを振ると紫色の煙が空気に筋を作る。
この香り、記憶の何処かに懐かしさを覚えているが、思い出せない。
「人の闇が知りたい、そうだろう。僕もだよ。闇が生まれるその根源を。」

澤井の姿が歪んで見えてくる。幻覚剤か。
人の欲望をどんなことでも叶える、そして、引き換えにその人間の生命を食らう。
目の前には澤井と代わり、紫の煙の中に龍が浮いていた。
「僕をこの世に生んだのは君だ。それは、ずっと君が思ってきたこと。」

気が遠くなる。記憶の中の情景が蘇る____
幼い私は、海岸に打ち寄せられた海藻や、砂の中に埋まった珍しい貝殻を探っている。一歩進むたびにヤドカリが一斉に逃げる。
流木と海藻の吹き溜まりを足で蹴る。
潮の匂いの中で、一瞬嗅いだことのない匂いがした。
砂浜に落としていた視線を上げ、周りを見渡した。
白い砂浜に何かある。近づいていくと光沢のある黒い石のような塊が落ちている。
手を伸ばし、拾い上げると、その塊からその香りが強く香った。
途端に視界が歪み、晴天の空が突然曇り、目の前には闇が広がった。
その視界の中央に、龍が浮かぶ。
波の音に重なるような、雷鳴のような声を聞いた。
「おまえの望みを言え。」

私は、恐怖の余りに考えもせず、その時にとっさに思い浮かんだことを口にした。
「なんで、浩紀くんはあんなに私に意地悪するのか教えて。もういやなの。」
浩紀は小学校のクラスメートで、毎日、執拗に私にちょっかいを出したり、鉛筆や消しゴムを盗んで、それらを失くした、と焦る私をからかっていた。教科書に落書きもされ、幾度も泣かされた。
けれども、それが悪意のあるいじめとは違うことは、分かっていた。浩紀の行為を本気でうっとうしいと思いつつも、私の小学校の時間は彼とのやり取りによって多彩な色に塗り上げられていた。登校してみて、彼が欠席と分かった時は落胆した。それほど、浩紀の事ばかりの毎日だったから、その時も、突然現れた龍の言いなりのまま、口から咄嗟に頭に浮かんだ浩紀のことを語ったのだろう。

「分かった。」
そう言うと、龍は失せた。

気が付けば私は家の座敷に敷かれた布団に寝かされていた。奥から母の声が聞こえる。
「だからあの子には外で遊ばせるなら帽子被せないと日射病になるってあれだけ言ったじゃない。浜では照り返しも強いんだから。」
母が祖母にきつく当たっている。
「浜辺なんかで独り倒れられて、漁港の人に見つけてもらえなかったら、どうなっていたと思うの。」
そうか、私は浜で遊んでいて、そして熱射病になってしまったのか。何か、夢を見ていたような気がする。気分は悪くはなかった。
私は布団から起き上がり、私はもう大丈夫だから、と母に告げに言った。
布団を畳んでいると、どこかで甘い匂いがした。ふと、スカートのポケットの中に浜で拾い上げたその黒い石を見た。

熱射病の中で見た、奇妙な夢。それだけのこと。
浩紀の小さな水死体が見つかったのは数日後のことだった。
私は、誰にも龍の話は言わなかった。言ったところで、誰がまともにその話を聞いただろう。浩紀がいなくなった。死んでしまった。私のせいかもしれない。でも、悪戯をする浩紀が悪いんだ。浩紀が悪いんだ。もう会えない。私のせいで。浩紀がいなくなってしまった。


その後、クラスメートをひとり事故で亡くした小学校のクラスの雰囲気は重いまま、学年が変わり、浩紀の家は引越し、まるでその出来事には触れてはならないような気がしていた。私の時間は止まることなく進み、いつの間にか、その出来事は記憶の奥底、遠くに押しやられていった。
あの石は、あの石はどこに行ったのだろう。
_____________
「この通りだよ。僕が答えだ。君は光の中に暮らしていながら闇に愛された。」
龍は、澤井の姿になっており、元の場所に立っている。
「君は知っていた。意地悪や悪戯をされることが、彼の悪意から生じたものではないと言うことを。君は、分かっていただろう。そして、それを愉しみにすら感じていた。けれど、君はあの少年が消えてほしいと言った。嫌っていた。そして、愛していた。闇は、愛から生じた。分かっただろう。」
「どういうこと。何を言っているの。」
「君は、自分に向かう闇が、自分だけに向くべきもので、その闇こそは自分だけものものだと、そう願った。時空を裂いたのは君だよ。」
「あの日の夢。」
「夢じゃない。君があの日、龍涎香を拾ったんだ。」
甘い香りの煙が濃くなる。
「もうやめてっ。」


記憶が噴き出す。浩紀の葬式の情景。通学路から見た防波堤沿いに手向けられた慰霊の花束やお菓子。
6歳の浩紀の意地悪が、私だけに向けられた、まだ恋にもならない恋心であることを、あの頃の私はそれとも分からず、信じたかった。
幼い男の子が自分を困らせ苦しめている行為が、私にとって初めて記憶された恋であったことを、今、自分が澤井に向けている感情、澤井が自分に向けた感情の中に知る。
「君が拾った龍涎香を今ここで焚いている。」
澤井は香炉を揺らす。

「叶えたよ、君の望みを。僕は君が望んだ光の分身の闇だよ。君が愛したかった闇だよ。」
煙に包まれ龍は澤井の姿となる。
「君が望んだんだ。全て。」

靖国通りの路上で山岸さんが私を見つけた時には、私は辛うじて息をしているものの、廃人同様だった。意識が戻ると間もなく、山岸さんの力を借り、辛うじて、退職願を出した。

私が闇を追えば追うほどに、闇は生まれるのだ。私が呼ぶから。

潮騒など聞こえるはずもないこの街で、代りにサイレンが響く。
甘い香りが漂う。香炉から立ち上る煙。
新たな闇を生じさせぬために、私自身が闇となり、街の端の影の中に留まることを選んだ。
今日も小さな欲望の数々が低俗な願いを叶えるために、私の下に集まってくる。
この街で、いつのまにか、人は私を龍と呼んでいる。

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