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short story_Arabie

これまで市販品として入手出来たが、販売終了や調合変更で今後その香りを味わうことができなくなる香水がある。また、個人調香や季節毎の原料の変化を楽しむ香水はそのロットを使い終えれば、二度と同じ香りには出会うことはできない。香りを完全再現することは現実的には不可能だが、その香りによって刻まれた印象を物語の形で記録し、読むことでその時の感覚を再現する試みを始めた。short storyに取り上げるのは、市場在庫がなくなればその香りが手に入らなくなる香水の物語。

Serge Lutens Arabie(2000), composed Christopher Sheldrake

土地の浄化

低酸素に慣れるまでカトマンズで5日間を要し、ようやくインド国境に近いネパールの村へと辿り着いた。マグニチュード8近い地震に見舞われ壊滅的な被害を受けたのは2年前。廃墟となった村には形の崩れた土レンガと瓦礫だけが残され、赤い土埃に晒さられている。日常を失ったこの地に村人が戻ってくることは、もうないだろう。畏敬を集めた多くの寺院も倒壊し土へ還ろうとしている。文化財被害調査を謳いこの地に送り込まれた私は、火事場泥棒に等しい。資金を出した宗教法人と学術団体私に求めていることは、表向きは寺院修復を目的とした予備調査だが、その実、所有者を失った信仰にまつわる品々の考古学的、美術的価値の見極めだ。私は大学では原始仏教の講義をしているが、美術品に対する審美眼などない。私にとって古物は過去の情報を読み取るための媒体に過ぎない。これまでに、中央アジアには調査で数回入ったことがあるものの、ネパール周辺に入るのはこれが初めてだ。修復どころか、倒壊前の状態にも詳しくなどないのだ。今この地のこの惨状の中に立ち、地球という惑星の脈動の下、人々が頼みにする信仰が如何に儚いかを見せつけられるようで切ない。高山病の頭痛をひきずりながら、半ば投げやりになり、崩れた石積の下でタルチョーの赤や青の端切れが揺れるのを見つめていた。


寺院倒壊現場で発掘作業をしている丘の上が騒がしい。叫ぶ声や怒号が飛び交う。テントに駆け付けた人夫が息を切らし告げに来た。
「作業人が穴に落ちた。梯子かロープが必要だ。」
なぜ穴があるのだ。なぜ、そこに人が落ちるのだ。私が現地の人夫に指示したのは瓦礫を手で丁寧に取り除くようにということだ。余計なことをしてくれるな。数歩歩けば低酸素のために息があがり、思うように前へ進めない。苛立ちながらも急ぎ行ってみると、確かに、見下ろす足下には深い空間が存在し、その薄暗い空間の中で呻く若い作業人の姿があった。すぐさまロープと梯子を下ろし、私ひとりが穴に入った。そこは、穴というより、部屋、地下室のような場所だった。壁には石が積まれ空間は広い。土が崩れ上から降ってくる。慌てて怪我をしている作業人を担いで地上へと押し上げた。彼を搬送するために人が穴の周辺からいなくなり、彼らが戻ってくるのを待つ間、その地下の部屋を調べることにした。ヘッドライトで照らしてみる。極彩色のタンカ。祭壇。花瓶か壷の様なもの。半分に割れていた。タンカ。羊毛の敷物。手探りで壁伝いにその空間を歩いていると何かが手に触れる。壁に据付の観音開きの木の扉がついている。周囲はただ石が積まれているのみ。横穴があるのか?その扉の中に何があるのか。日本では大抵仏壇でも据えられていそうなところだが、それにしては小さい。扉に掛けられた錆びた閂は1ミリも動きそうにない。額から流れる汗が埃と混じり目の中に入り沁みる。仕方がなかった。落ちていた大きめの石を取り上げ力任せに振り下ろした。文化財保護どころか、これでは本当に盗掘者だ。閂は扉の一部とともに脱落し音を立てて床に落ちた。横穴は深い。手をやると木箱の様なものに触れた。ひどいにおいがする。けれども好奇心には勝てず、私はその木箱を用心深く取り出した。箱の蓋は既に朽ちかけいる。中に入っていたものを取り出し背筋が凍った。貝葉の束。ヤシの葉の様な植物の葉に文字が細かく刻まれている。少なくともネパール語ではない。古代サンスクリットの文字のようだ。まさか、テルマ(埋蔵経)か。興奮に頭痛が吹き飛び、代わりに身体の震えを感じた。いや、分からない。ただ、相当古いはずだ。これと似た貝葉の束の遺物はこれまで11世紀頃の資料として保管されている。或いはそれよりも前。

村を出て帰国するまでに持ってきた衣類や下着のほとんどを現地の作業人に贈ったために私は情の厚い人間であるかのように誤解されたが、トランクにバスタオルでくるんだ木箱をパッキングするスペースが必要だっただけだ。調査レポートを書くので忙しいとホテルの部屋に引きこもり、ひたすら古代サンスクリット文字の並んだ貝葉のデジタル画像を保存していた。万が一、現物を持ち出せなかったとしても、書かれていることを解読する意義はある。

京都、吉田神社の横の階段を上がり竹藪を抜けると細い石段が続く。市内を見下ろす丘の上。その先に我が家がある。私が持ち帰った貝葉に記されていた文字の列は、書式が厳密に規定されている経典のそれとはかなり異なっていた。体裁は整っていない。なんとなく、メモか日記のような、その都度書き加えられ続けた、形式を持たない文章だ。しかし経典でもないのであればなぜ、わざわざ地下室の、それも横穴に施錠して保管しておく必要があったのか。何かの意味があるはずだ。底冷えがする日本家屋で石油ストーブと火鉢をそばに、頭と体が途切れるまで毎日翻訳を試みた。髭が伸び、目の周りが窪んでいく私を見て訪ねてきた友人たちは、医者に診てもらうよう暗に勧めながら私から離れていった。

読解できなかった部分については、大いに私の推測で補っており、正しいという確信はないものの一通り翻訳を終えた。帰国してから3つの季節を費やしていた。解読が進むほどに、食事と睡眠が削られていった。翻訳を中断することができないのだ。そこに書かれていた話の虜になっていた。

西方の國より5人の異人来る
男と女
ヤク牛を求む
代価に使役をする
土地を祓う

生きたままの血に穢された土地
人が強い怨みと恐怖を刻んだ土地
天寿を全うできなかったもの達がその場から動かずにいる土地
災いが続く場所
宇宙の意思を遂げられなかった生命の記憶が大地に染み付いている

かつて村同士の衝突があり、若い男、女、子供が多く惨殺された岩場
鳳(おそらく禿鷲のことか)が長い間その周囲を飛んでいた
一羽の鳳が死んだ
しかしその屍を食べる鳳はいなかった
直後すべての鳳がその場を去った
黒い雲から龍が降り家を焼いた(落雷のことと思われる)

村に現れた異人たちは初めからその岩場を避けていた
睨むような眼で岩場を見ていた
そこには穴があると言った
空中に黒い闇が穿たれていると
闇は直接宇宙につながりそれは生命とは逆の時間に向かう

闇の穴を埋め
新たな生を生む土地へと蘇らせる
土地を祓う者達

風を起こし、良い匂いのする煙を自在に操る者達
闇として濃く漂い、その土地に滞留しているものを天へと送り流す

月のない夜
北斗七星の位置を頼りに時刻を測る
祓う場の5か所に炎を立てる

西方の国の油が暖められ、嗅いだことのない芳香が辺りを包む
香りに惹きつけられ村人が集まった
犬やヤクまでがそれを取り巻き集まった
楽器が奏でる異国の音楽
見たことのない美しい踊り
衣装に散りばめられた小さな石が火を受け闇に煌めく
歓喜の時間
時とともに変化する空気の香り
時折、強い旋風が起こり土煙が螺旋を描いて天へと昇る
それは夜が明けるまで続いた
夜明けとともに異人たちはヤクを連れて村を出た
一部始終を見ていた村人たちは数日間、その時の笑顔を失わなかった

血を流した争いの後、木が枯れ、草の育たなかった岩場の土地に
雪が解けた春、緑の芽が出た

異人たちが残していった壷に村人は群がり、
麦畑を放置して日々そこから薫る匂いに酔い続けた
食事も睡眠も欲さなくなり次第に働かなくなる村人が増えた
既に壷の中には何もなくなっていたが、残り香を求め壷の周りに集まる人間が絶えなかった
麦畑が荒れるのを見兼ねた村長はその壷を捨て去ろうと
谷間に投げた
谷を落ちていく壷は岩に当たって砕けるたび
見たことのない鮮やかな色の花々をまき散らしながら
消えた


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