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Short story_色を支配する男

Colors (Sunnyata perfume)_composed by TokyoSanjin

イメージする力が強く、そのビジョンで現実を動かしている。
持って生まれた格が高く、広く何にでもアクセスできる。
ただ、その男は闇の側に棲んでいた。


手首を切って血を流しても、こんな人の多い場所では死ねないよ。
傷ついたのは周りにいた人たちだろうね。

自転車で転倒した青年の頭部裂傷の縫合の次は、応急止血されて運ばれてきた20歳の女性だった。処置を終えると、自殺未遂対応のプロトコルの通り、精神科に救急扱いで診察予約を入れる。
これほど窓の外が明るい時間に自殺未遂を企てないといけない気分になるというのはどういうものなのだろう。
「石田先生、あと10分で救急車が到着します。公園の階段から転落、裂傷。幼児。男の子です。」
片手をあげて了解の合図を送る。
この時間帯に似つかわしいのは、そんな患者だ。
横たわる女性は唇に色が戻ってきた。失血によるものではなく、自律神経からくる脳貧血による血圧低下がみられた。意識混濁はあったが、この様子なら強心剤も不要だろう。
失った血液はまた作ればいい。
若い身体の細胞は女性の意志と無関係に生を保とうとする。
これが齢を取るにつれて、生きる意志を失った身の細胞は、その絶望に従うことになる。己の若さに感謝すべき。
「自分が死なないと、私があの人を殺してしまうかもしれないと思ったんです。」
涙が目の端からシーツに落ちた。
「まだ頭を上げると立ち眩みがあるかもしれないから、1時間は横になっていてください。それからカウンセリング室で診察を受けて下さい。」
泣き続ける女性をのせたストレッチャーは処置室を出ていった。

私は縫合が何より得意だった。子供の頃から、裁縫が好きで小さなぬいぐるみなどは器用に自分で作っていた。救急外科への配属は、自分の希望でもあり、スーパーバイザーだった教授からの勧めでもあった。
縫合部位によって微妙に糸のテンションを変える。そうやってできるだけ傷跡が残らないように努めている。けれども、少しずつ気付き始めていた。
器用で経験も豊富な医師が丁寧に縫合したとしても、傷跡が残ることはままある。
それは、縫合の腕や傷の大きさの問題ではなく、患者側の皮膚の状態や体質の問題とされる。化膿を起こしやすい体調などにもよる。それは間違っておらず、誰も疑わない。
しかし、私の縫合のあとの傷の直りがいずれの患者のケースでも早く、跡が残らないことは、患者側の問題ではない、そう指摘したのはインターン時代の看護師長だった。
まじない程度の事だと思っている。
私は、傷を回復させようとする患者の生体に自分の生命力や何かしらの強さが届くよう、処置をしながら願っている。
私自身の健康や活力が、縫合される細胞の回復をも、少しだけ後押しすることを祈っている。
そうすることで患者の傷の直りは実際に早く、化膿も少ないのだ。
この事実は、逆のタイプ、つまり、必ずと言っていいほど化膿し、傷痕を残す結果となる治療をする医師も存在するという事だ。

「石田先生、ごめん、今から運ばれてくる男の子は僕が診るから、女の人の方、お願いできる?自殺未遂らしい。」
同僚医師の藤田が処置室を覗く。
「え、手首の患者さんは、今終わりましたよ。」
「ちがう、もう一人来る。」
「何、リストカット流行っているの?」

冗談のつもりだったが、冗談にならなかった。流行っているのだ。
救急隊と友人に付き添われ、抱えられてきた女性。手首にはタオルが巻かれていた。赤く染まったタオルを解くと、ほぼ止血している。傷は浅い。
「薬やお酒を飲んだりしていませんか?」
「多分、ビールを1,2本飲んでると思います。部屋に缶がありました。」
「では、もしかすると麻酔が効きにくいかもしれませんけれど、少し我慢してください。」
死ぬつもりでいたのだ。多少の痛みは諦めてもらう。
「なんで彼女が傷つけられないといけないのか、本当にこんなことする子ではないんです。」
友人は涙ぐんで興奮気味に庇う。
「傷つけられたって、自分で切ったんですよね?」
「手はそうですけど、心の問題です。」
精神科に救急予約を入れるかどうか迷う。彼女の味方は精神科の医師ではなく、この友人だろう。親身になって心配してくれる友人に恵まれていながら、自分を傷つけないといけない程の心の傷とは。
「あの男、捕まって死刑になればいいのに。」
「何か犯罪性のある事件に巻きこまれたりした、ということでしょうか。であれば、こちらから警察に連絡します。」
友人の女は頭を横に振る。
「女を手当たり次第にたぶらかす、それは罪ではないんですか?」
それは私が判断する事ではない。
性悪のホストにでもひっかかったのか。でもホストなら、商売の入り口として女を狂わせたという点で成功だろう。商売の出口をどうするのかは客が選ぶもの、罪ではない。
ご友人に付き添いを頼み、精神科へ向かって頂いた。

術衣を脱ぐとタンクトップから脂肪の無い腕が伸びる。
鏡に映る自分の、ボサボサの髪の毛、夏休みの虫取りにでも行くような子供のような格好に今日一番のため息が出る。
その姿のまま冷めてしまった親子丼を医局で掻き込む。
「今日は華やかなものですね。失恋自殺未遂の連続なんて。このところは専ら鬱の果ての、飛び降りやら、薬飲んでの、が多かったのに。夏休みだからかな。」
「歳をとった時、振り返れば懐かしい腕の傷。」
「手首を切って死ぬなんて誰が考えたんだろう。昔、美人で可憐な女優が映画かなんかでやったのかな。そもそも死なないよね。そしてマネする奴は美人でも可憐でもない。もし死ぬ気ならさ、僕はここ、ここをこうやって・・・・」
口さがない同僚たちの声を背に、食べ終わったどんぶりを持って洗い場に向かう。

女子更衣室の洗面台で歯を磨いていると看護師の由香里が華奢な腕を絡ませてくる。
「ねえ石田先生、今日の夜、空いていませんか。ジャズライブがあるからバーの席を予約していたのに、彼が今日は来れないってメールしてきたんです。」
「なんで私をデート相手の穴埋めに誘うの?」
「だって、先生ジャズ好きだって前に言ってたからですよ。」
そう、それは本当のこと。夜の誘いに滅多に頷かない私も、ジャズを聴きながら飲めるのなら行きたい気がした。明日はようやくの休み。休前日の晩に外に出るのも悪くない。
「分かった。行く。」
「チケット、6千円です。」
「はいはい。」
とは言ったものの、タンクトップ、というよりもはやこのランニング姿ではさすがにジャズバーには行けない。
「石田先生、外来から救急処置の依頼です。」
「はい、行きます。外科から?外傷でしょうか。」
「内科の待合で、手首を...切ったそうです。」
「感染性だ。」
「は?」

またも若い女性のリストカットだった。揃いも揃って色恋沙汰の果ての芝居じみた選択。
ただ、東京消防庁の統計情報では、リストカットの搬送が立て続けなのは不思議とこの病院の周辺に限られていたようだ。
社会全体の性欲がもっぱら不活性な今日この頃にあって、死ぬほどまでに追いつめられる恋とは。なぜ歓びに満ちることなく、絶望に命を投げ捨てようとするのだろう。
若い女性にそれほどまでに想われる男が、今日だけでも3人はいるということ?

私のその予想は、外れていた。
相手である色男は3人ではなかったから。

病院からは徒歩で迎える距離。
青山の路地を少し入ったところ。シックなジャズバーには看板は無い。
その店の前で、柔らかなラベンダー色のワンピースを着た由香里が手を振っている。
看護師のユニフォームと髪形は彼女をいつも幼く見せていたが、化粧をしてデート仕様の姿となった彼女はそれなりに美しい。
「石田先生、何その恰好。リクルートスーツ?」
「今日は、タンクトップで出勤してたから。ロッカーに入ってた着替えの服がこれしかなくて。」
上下黒のパンツスーツ。ロッカーに入れっぱなしであった程度に安物だ。
「なにこれ、本当にリクルートスーツ?それとも喪服?」
由香里がふざけて弄り回す。
「その両方よ。」
「そんな恰好、なんか先生と一緒に行くの、私、恥ずかしい。」
由香里は私から数歩離れて歩く。
「そりゃ、貴方の彼氏の代理ですもの。かくべき恥はかいて。」
「何それ。変なの。あははは。」
暗い店内には木の香りに満ちている。
一枚板の大きな木のテーブル。広くない店内だが、一段低いコロセウム状のステージにはサックスとウッドベース。そしてドラム。
由香里はビール、私はスコッチのロック。一日の仕事で背負っていた緊張も緩む。
照明が落ち、ステージが仄かな明かりに浮かび上がる。
男性トリオの演奏が始まる。
低音が低音のままに空気を伝わり耳に届く。音楽に酔うようだ。音の流れのままに、別次元の世界にトリップする。身体のあちらこちらを縛っていた見えない針金が解けていく。
トリオの音の厚みが心地よい。

何時までも聞き入っていたかったが、最終曲が終わる。
アンコールの拍手。
歓声の中、白いスーツの男性が袖から現れ、中央のスツールに座った。女性たちのグループから、言葉にならない黄色い声が上がる。
「最後に本日、スペシャルゲスト、カーロのボーカルと合わせてお楽しみください」
紹介を受けた歌い手の男性は、女性陣の叫び声が収まるのを待たずにトリオの奏でるリズムに合わせて歌い始めた。
声が響かせる空気が鳩尾の奥に届く。
濁りの無い声が部屋の隅々までを震わせる。豊かな声量。
感情がひどく揺さぶられる。
悲しさ、焦り、警戒心、そして抑えられない高揚感、自分の鼓動が変わっていく。
ただ単に歌うことが上手い、ということではない。感情を歌に変えられる歌手だ。
スペイン語の歌詞の意味は断片的にしか聞き取れない。しかし、歌詞は分からずとも愛を唄う歌であることは分かる。
スポットライトは男の端正な姿、ブラウンヘア、アイグラスを照らし出す。
この場で歌手として歌っていなかったら、反社会勢力の幹部のような派手なスタイリング。
しかし、まるで人間の優良モデルのような彼の整った骨格にはよく似合っていた。
彼以外が纏えばコントの衣装にしかならないだろう。
指先、脚先、隅々にまで神経質な感覚が張り巡らされている。
そこから発せられる、あまりに温かく切ない恋の歌。
まるで自分ひとりに向かって愛を解かれているような、変な気になってしまう。
酔いが回ったのかしら。氷水に変わってしまったグラスの中身を飲み干した。
横の由香里に目をやると、もう完全に心を奪われてしまったようだ。

「石田先生、最後のカールっていう歌手のひと、どこかで単独ライブやらないのかな。私絶対行く。」
「惚れちゃった?今日は彼氏が来なくてよかったね。」
冗談で言ったつもりが「本当ですよ。」と真剣に返された。
「遊ばれてもいいから、あの人と付き合いたい。」

翌日、2週間ぶりの休暇の朝は清々しい夏晴れ。
ドーナツを買いに近所のカフェに出かける。
熱いブラックコーヒーと甘いドーナツを休日の朝だけは自分に許す。
昨晩のカーロの歌が、その曲のフレーズも歌詞も思い出せはしないのに、熱い声だけが記憶から蘇ってくる。
冴えない黒のパンツスーツ、そしてノーメークでライブに行った昨晩の私。
火を着けても、着けても、消してしまうような冷めた心の私に、何かの熱が生まれていた。
ふと、いつも左手首にしている細いゴールドチェーンのブレスレットをしていないことに気が付く。つけ忘れて家に置いてきた?
記憶を辿って、蘇った光景に頭の血の気が引く。
昨晩、バーで外した記憶があった。
留め金が緩んでいて、落としてしまうかもしれないと思い、外してしばらく手の内でもてあそんだ。それから?どうしてもバッグにしまった記憶がない。暗い店内。コースターの横で輝いていたブレスレットを見た光景が最後。
置いてきてしまった?やっぱり。

恥ずかしながら、置忘れや失くし物をしてこんな面倒に陥るのはこれが初めてではない。むしろ、よくある。
昨晩行ったジャズバーの電話番号を探し出し、開店時間が17時であることを調べ、時間を待って電話を掛けた。
「ああ、ブレスレットは確かに忘れものでありました。まだこちらで保管しています。直接取りに来れますか?それとも。」
「行きます。どうもありがとうございます。後ほどすぐ伺います。お手数かけてすみません。」
見つかって一安心だが、せっかくの休日になんという面倒事。
家からタクシーで青山へと向かった。
バーのドアを開けると昨日の店内。ただ客はまだ誰もいない。
カウンターの中に居た、白髪を短くした、オーナーから声がかかった。
「ああ、ブレスレットの人?」
「はい、石田と申します。」
「一応、念のため免許証か何かコピーさせてもらってもいいですか。警察に届けるほうが本当はいいのだけれど、もしかしたらご本人が気づかれるかなと思って取っていました。」
「助かりました。あってよかった。宝物なんです。」

「じゃあ、家の外では外さないことだよ。」
オーナーと私だけかと思った店内の奥、後ろから声がかかった。
振り向くと、テーブルに腰を掛けてこちらを見ている男性がいる。
ストライプのシャツと、リネンのパンツ。サングラス姿が、昨晩の雰囲気とはすぐに一致しなかったが、カールと呼ばれていた歌手だった。
「ああ、昨日は素敵な歌、ありがとうございました。とても心地よかったです。」
「覚えているよ、昨日は地味なスーツだった人ね。」
「ああ、見えていたんですね。」
「ステージからは観客がよく見える。君は地味で目立っていた。似合ってもいなかった。」
オーナーは事務所に免許証のコピーを取りに行った。カールと二人になった。
「今日の格好の方がずっといい。」
スキニ―ジーンズにヒールサンダル。トップスはコットンのカフタン。休日の普段着だ。
「付けてあげるよ」
カールが傍に寄り、私が着けるのに戸惑っていたブレスレットを私の腕に巻いて留め具を留めた。
そしてブレスレットが揺れる私の左手頸を掴んだまま離さずに、じっと見つめている。
思わず後ずさり、彼から離れながら礼を言う「あ、どうも。すみません。」
その時、彼の瞳に浮かんだものは何だったのだろう。透明に輝く瞳の底、深く深く何処までも光が落ちていく。思わず息を呑んだ。彼は私から目を反らさない。
たまらず、声を出しその空気を破る。
「あ、友達が、またどこかでライブがないかなって。いや、私もライブでもっとあなたの歌を聞きたいと思っています。どこか、ご出演のご予定は?」
「いつでも、唄うよ。お友達にもそう伝えて。」
その時オーナーがコピー済の免許証を返しに戻ってきた。
「はい確かに確認させてもらいましたよ。」
「どうも、お手数おかけしました。」
人通りや明かりの多い国道246まで小走りに路地を抜けた。タクシーに乗ると、汗をかいていた。そして無意識に左手首を握っていた。カールに掴まれた、手首。それは間違いなく恐怖ではあったが、とてつもなく甘い、恐怖だった。

数日後、診察室で器具の消毒をしながら由香里がため息ばかり吐いている。
「なに、さっきから、溜息吐いて。二日酔い?」
由香里は違うと首を振る。
「じゃあ彼と喧嘩でもしたか。」
それも違うと首を振る。
「どうした。」
「先生、私、恋がとまらない。」
「ああ、あっそう。精神科に行ってね。」
のろけ話なら興味がない。彼とも結婚する予定だと言っていた。
「彼と、別れる。」
「は、何言ってるの?」
「カール。」
その名前を聞き、一瞬、私もどきっとした。
「あの後、夜にあのバーにもう一度行ってオーナーっていうか、マスターに聞いたんです。カールはライブハウス活動とか、SNSとか情報は無いのかって。」
「へえ、また行ったんだあの店。」
自分がブレスレットを取りにそこへ行ったこと、そしてそこでカールに会ったことは黙っていた。
「それで、」
「彼は歌が本業じゃないんですって。」
「じゃあ、本業は何なの、彼?インテリヤクザ?ホスト?」
「違うわ。カールは。」
「カールは?何」
「愛の宣教師。」
「はい、診察室開けるよ。さっさと消毒終わらせて」

気障なルックスは、由香里の好みには合っていたのかもしれない。それはそうかもしれないが、少なからず私の心も乱されようとしていた。小さな波紋が広がっていくように、あの男のことが頭を占めつつある。
ただ、どこかに違和感を感じていた。

由香里は日々、顔色が悪くなり、元気な声が聞かれなくなっていた。
「疲れてるんでしょう。休みなさいよ。」
「先生、私本当に精神科行きかも。」
「どうしたの。」
「恋患いってこんなに苦しいんですね。」
「まさか。」
「そう。彼とも別れた。全く彼に、気が向かなくなって。もう私の頭の中、カールの事しか。」
「ちょっとまって、アイドルに狂う中学生じゃないんだから。正気?」
「正気じゃない。自分でもどうかしてると思う。」
「安定剤出そうか。」
「私が欲しいのは安定剤じゃない。カールでなければだめなの。」
「この前のジャズライブのあと、ライブとか行っているの?彼、カールには会えた?」
由香里は頷いた。ライブにも2回行き、ライブがない週はバーのオーナーが店で会わせてくれたと。完全に中毒だ。
「彼以外のことが考えられない。」
由香里が左の手頸を撫でているのに気が付いた。
「どうした、手首。どうかした?何かされた?」
「カールに握られたの。」

私の違和感は、危険への確信へと変わった。
「それ以外、何かあった?」
「何もない。カールはとてもやさしくて、素敵で、私の心を奪うけれど、絶対に私を愛してくれないっていうのが、分かるの。」
「あなたは、十分まともだわ。今は。由香里。」
解き放たなければいけない。
由香里はカールの作ったあまりお勧めできない遊園地のような世界に囚われてしまっていた。

それは実在しない楽園、おとぎ話、夢の国。ディズニーランドのようなもの。
此の世の女性の心がばら色に染まる、たった一人の王様の城。
ただ、ディズニーランドと違うのは、そこは由香里のために創られた世界ではない。
甘い恋、心を焦がすその煙の匂いを、自分の城の中で楽しんでいる城主がいる。

カールは、意図的にそれをやっている。
極限に追い詰められるか、深刻な危険に直面した時、私には普段は働かない特殊な洞察力と直観力が働く。
そして、この数週間リストカットで搬送されて来た女性たちの事を思い出した。

或る夜、青山のジャズバーへとひとり向かった。
シルクのボウタイブラウス。白い麻のフレアパンツ。
ヒールサンダル。大ぶりのバロックパールのピアス。そしていつものブレスレットを左手首に。
入り口に小さく灯ったキャンドルが開店を知らせている。
ドアを開けるとまだライブは始まっていない。
早い時間に、数名、男性が独りでカウンターに座っている。
私もカウンターに着いた。
「こんばんは。お飲み物は何になさいますか。」
「スコッチを、ロックでお願いします。」
「あ、あれ。お客さまは、」
「はい。先日はどうもありがとうございました。ブレスレット。」
ああ、と気が付いた様子で、そして今日はバーマスターをやっているオーナーは小声で言った。
「あの時の方でしたか。なんだか今日は見違えました。素敵ですね。お待ち合わせですか。」
「ねえ、ブレスレットの事と言いいつもお願いばかりすみませんが、今日もお願いがあって。聞いてもらえますか。」
「なんでしょう。」
「カールに会いたい。」
飲み物を用意していたマスターの手が止まった。
「はいはい、そうですか。」
マスターは、その類のリクエストにさも慣れているかのように、嬉々として壁に貼った手書きのメモをのぞき込み、言った。
「次のライブは赤坂で、明後日。」
先程までは抑制の効いた、物静かなマスターだったはずが、私がカールに会いたいと言った途端、態度が高揚しているのが見て取れた。
その不気味さに身震いがした。
「場所はねえ、今メモするから。」
口を開けて、にやけた時に覗いたのは真っ赤な歯茎と犬歯の乱れた歯列。次第にマスターの声のトーンが高く変わり、早回し再生のような早口になる。
「最近は彼も何かと忙しい様で、一度人前に出たら人気が出ちゃってね。でもね、喜んで唄うと思いますよ。貴方くらい素敵な女性は特別ですよ。」
その後に延々続いた彼の言葉を、意図して聞き取らぬよう、意識を避けるために、目を店の隅に向けた。
従業員が奥のドアから出入りした一瞬、覗いた事務所の青白いLEDの光。
その奥のデスクに積み重ねられた封筒や書類の山。
洗練された雰囲気の良いジャズバーの裏に、押し込まれていた低俗なものがあふれ出す。綻びを見た。安コロンの匂い。意識の綻び。カールがいない時には、この程度の場所だ。
首筋にこれまで意識しなかったエアコンの風を感じる。

カウンターの下で手首にそっと香水をのせた。
正気を失わないために手首に付いた香りを深く吸い込む。ここはカールの築いた城の、ほんの入り口だ。
マスターには悪魔の眷族を示す禍々しい尾を見た。

赤坂。陽が落ちても日中と変わらない気忙しさの街。多くは無いが、ある割合で美しい女、美しい男がいる。そしてこの街に呼ばれた者だけが集まる場所がある。
サマードレスとスカーフ。青いパンプス。カールに会うために必要な鎧は、美しさだ。
アイラインには顔の造作を変えるほどの力がある。
熟れたプラム色のリップ。
アイラッシュが作る影。

オーナーからカールがライブをすると聞いた、ある場所へ出向いた。
そのビルの中、エレベーターに乗り込み8階を押す。エレベーターの扉が開くと、ワンフロアに仕切りの無い巨大な空間が広がっていた。東京の街を望む壁一面の嵌め殺しの窓がフロア3面を囲んでいる。
ここはライブハウスでも店舗などでもない。工事中なのだろうか。場所を間違ったか?とマスターからもらった情報のメモに目をやりエレベータの扉を閉めようとするとその扉を再び誰かが開けた。
「ようこそ」
誰もいないと思われたその空間にカールがいた。
「あの、今日はライブ..ここではないのですか。」
「歌うよ。美しい姿で現れた貴方だけのためにね。」
彼が佇む背景はカーテンもブラインドもないカラス張りの壁。東京が夜景となって瞬く。
ギターを手にして、カールはカウンターに一つ置かれた椅子に座った。
そして私にもその傍の椅子を指し座るように促す。
何も言わず、カウンターでスコッチのロックを2つ作り、一つを私に手渡した。
カールはギターに合わせて2曲、私の前で唄った。
その歌声、音楽は麻酔のように私の思考も行動も停止させる。
心が震えて涙を止めることができない。
とてつもなく甘いビジョンが浮かぶ。
しかし、これは、私の中にある想像ではない。彼の想像だ。
美しい空間に奇跡のような時間。終わらないでほしいと願う。それが破滅に向かうことだと分かっているのに。
唄い終え、彼はギターを置いた。彼に惜しみない拍手を送った。
「言葉にできない。」
息を深く吸って、そして吐いた。
これからは、カールの力を退けて、私の中の、光の力を使うために。
「ただ、あなたは、なぜこんなことをしているの?」
「何故って?君がこれを望んだからだよ。」
その通りだ。自嘲するしかない。
「あなたは、何者なの?カール。」
「時々歌手。正しい納税者としては、なんのこともない投資家だよ。それだけさ。
ああ、そういえば君はお医者さんなんだってね。お友達が教えてくれたよ。」
「一体、由香里に何をしたの?」
「彼女が望む夢を、そのままに見せてあげた。」
「決して叶わない幻想の事を、夢というの?人が希望を失う時、大げさに聞こえるかもしれないけど、命に関わるものなのよ。ねえ、目的を聞かせてもらえない。手当たり次第に女性を夢中にさせて、一体何をしているの?お金?優越感?何故女性を弄ぶの?」
「金なんか全く興味ない。」
冷笑を浮かべカールが言う。
「僕は人間に本当の愛を教えたいだけ。醜く低俗な、未成熟の恋愛遊戯なんかではなくてね。」
「そうして、あなたの言う本当の愛というのは、誰かに教えることができたの?随分たくさん生徒がいたようだけれど。」
「そうだね。でもどの生徒も、駄目だったよ。嫉妬、独占欲、見栄、身の程を知らない強欲。どんなに外見を取り繕っても、ひどく醜い。美意識がないんだ。皆、落第だったよ。どの女も、いつも、駄目なんだ。」
「そうでしょうね。」
この男が特殊な人間であることは、誰にでも感じられる。
女性でなくとも、誰であっても彼に興味を抱くだろう。
彼を前にすると、劣等感や羨望が抑えられなくなる。ある種の女性にはそれが届かないものへの憧れを通り越し、恋愛感情にすり替わってしまう。
「あなたは、そう。経済予測家にでも、歌手にでも、芸術家にでも何にでもなれる。人の悲しみや負の感情をエネルギーにすることができる、特異な人。
どうして急に表に現れたの。スポットライトを浴びてステージで歌うなんて、本来の貴方らしくは無いことのように思うけれど。本来、影の中にしか棲めないはずなのに、何が目的で人の視線の前に現れたの。」
「君は、何でもよく分かっているね。やはり、今日、来てもらえてよかった。正解だった。」
「あなたはいつも正解よ。私もあなたの魔法に掛かかった。でも、残念ながら魔法はそれが魔法であることに気付いたら、解けてしまう。」
彼は苦笑いした。
「名前を貰ったからだよ。」
カールは立ち上がり窓に向かって行った。明かりは東京の夜景だけ。このフロアには照明はない。
「名前を貰ったんだ。カールという名前を。だから表に出てきた。」
「ねえ、もう気が済んだでしょう。」
「お医者さん、あなたには、この世の中の仕組みが分かっているだろう。」
「いいえ。」
「僕には分る。しかし何故、他の奴らは皆、自分が存在する理由すら全く知らずにただ安穏と生きているのか。時々、それがもどかしく、俺を苛つかせる。」
カールにとっては、経済予測も既に描かれたこの世のビジョンを読み解くことに過ぎないのだろう。私はただ何となく、彼の類稀な、特殊な力を羨ましく思うよりも、気の毒に思った。
「安穏と、日々を送る。その方が、幸せだったりするのよ。憧れを憧れのまま抱いていけることが、幸せなの。夢に似せた張りぼての作り物の現実をお仕着せに与えられるよりもね。」
「君には、もっと早くに会うべきだった。君は面白い。君だって本当は知っているんじゃないか。この世の仕組みを。」
「そうだとしても、私は貴方と同じことはしないのよ。」
「なあ、少なくとも、俺たちはこの街に蟻のように暮らす人間どもとは、違うんだよ。持っている力を使わないというのは、それだけで罪になるとは思わないか。」
「人の負の感情を自分のエネルギーに変えることは、私はしないのよ。」
「君には、別の機会に別の形で会いたかったよ。」
「そうね。そうしたら、違う関係になれたかもしれない。もう人の視線の届かないところに、帰るといいわ。その名前はもう、使えない。あなたの正体は暴かれたから。」
「君の本当の名前を教えて。」
私は首を横に振って、私の頬に触れようとしたカールの手をそっと抑え、握り返した。
「言わない。そして貴方の名前も、消える。」
「そうか。」
影が薄れていくカール。彼は、私の名前を奪うことを諦めた。懸命だ。
彼の身体の向こうが透けて見える。
さようなら、カール。
一つの開いた窓の隙間から風が吹き込む。ひときわ大きな黒いカラスがその窓辺に止まっている。そして東京の空へと羽ばたいていった。決して暗くなることのない東京の夜に影を落としながら。

由香里を明日の晩ごはんに家に誘おう。私の手料理を食べさせよう。きっとまた元気になるから。

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