東京残香_南青山4丁目~西麻布
BOULE D’AMBRE :L’ARTISAN PARFUMEUR
掻き消され失われていく、その場所にしかない微かな土地の香りを短編物語に残す試み。
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東京道路地図を広げる。
太い幹線道路から毛細血管のように東京に隈なく広がる道。
実際に歩いてみると、尾根筋にあたる高台を走る幹線道路と、谷筋の川を暗渠の下水道にした上を走る幹線道路、そしてそれらを繋ぐ急坂から成る場所が多いことがわかる。
概ね、目黒通りや246青山通りが尾根筋にあたり、明治通りや外苑西通りは谷筋にあたる。
どれほど土地に人の手が加わろうとも、地形が培ってきたその土地の記憶は残る。
耳を澄まして谷筋を歩けば、かつての水の流れを暗渠から拾うこともできる。
感覚を研ぎ澄まし、この街の記憶を確かめてみる。
平成は、東京を書割の舞台に創り替えた。
チープな観光都市は、もはや無臭であり、記憶を何も遺さない。
震災、大戦、急激な都市開発は土と緑をアスファルトとコンクリートにし、外苑西通りにタクシーのテールランプが列をなした空騒ぎの20世紀末。
激しい時代の変遷の中にあって、この東京の中心で土地の記憶を留めた場所、外からは計り知れない空間が未だ残されていたのは奇跡だった。
その土地にひとり立ち、私は深呼吸した。
起伏の激しい地形が特殊であったためか、この一角は地上げや開発の爪に襲われることも無く、駐車場にもならずに済んだのだろう。
その稀有な場所を、東京での住処に出来たのは幸運だ。僅かな隙間に積み重なった土地の記憶を思った。
南青山4丁目の一角、細く曲がりくねった低い道はかつて水路であった名残だろうか。
***
「明日の会議は、日本時間の3時からになっていますね。電車がない時間ですが、迎えの車を出しましょうか。」
ゲストオフィス担当の秘書が伝えに来た。
霞が関の合同庁舎内に据えた当面のオフィス。
「いや、3時までにオフィスに着けばいいのなら、家から徒歩で来ます。」
私はそう答えた。
「この近くにお住まいなのですか。」
「まあ、40分もあれば着きますよ。」
「あの、私も会議に同席した方がよろしいですか?」
「いや、結構です。内々の打ち合わせですから。」
秘書は、自分が深夜に出勤する必要がないことが確認でき、ほっとした様子だった。
「夜中ですから、どうぞ気を付けて。」
時差がある場所との会議のために早朝や深夜に出勤することがある。
だから、スイスから東京への出向が決まった際には、職場から距離のある郊外に住むことは考えなかった。
早朝から公用車に迎えに来てもらうことは気忙しい。
都心でありながら、静かな環境でかつ人目を避けられる場所は極限られる。
人事担当は港区内の海外駐在員用のマンションを用意すると提案したが、140平米は私ひとりには広すぎたし、できればマンションに居住する他の在外公官との接触の機会はない方がいい。
私生活は自分ひとりだけの場所として、閉ざしておきたかった。
私は、国間利害に関わる諜報活動員などではもちろんないのだが、自分の正式な職位や業務内容を日本国内では明かさないことは仕事の成否を大きく左右する。
「スイスから研修のために来た東京駐在員」
表向きはそれ以上の自己紹介はない。
1980年代、高校2年で渡英するまでは、両親と暮らしていたのは渋谷区だった。
そこから港区にあった祖父母の家を訪ねるための最短のコースは表参道だった。
通り道以上の場所ではなかったが、欅がつくる夏の木陰や、クリスマスイルミネーションの傍ら蔦に覆われた同潤会アパートや原宿アパートメントに、何処となく惹かれていた。
その頃、この街を通ると独特の匂いがあった。
コーヒーや小麦粉が焦げる匂い、香水や花、ニンニクとオリーブオイルの匂い、鰹出汁や醤油、刷りたてのインク、季節によっても変化する色んなものが混じり合った匂いだ。
この場所もこの街の人もまだ粗削りで洗練とは程遠かったあの頃、他の街にはない独特の文化の匂いがした。
今では、両親も他界し、祖父母の家も両親の家もともに無くなった。私の子供のころの記憶を重ねた土地は、道路拡張敷地になったり、コンビニが入るビルやマンションに変わった。
子供ながらに、表参道には趣味の良い輸入品を扱うブティックや、レストラン、カフェ、ジャズが流れるバーが多かったことは、親や叔父と一緒に歩くことがあったことで知っていた。
当時、まだ“生徒”でしかなかった自分は、大人と一緒でなければ表参道に在るような店には立ち入ることはできなかったし、自分のような子供がひとりで大人の街にいることは滑稽であることぐらいは理解していた。
「いつか大人になったら、きっと。」
毎日、楽しそうな大人たちを横目に見ながら、手の届かないものへの憧れを募らせていた。
東京に降り立ち、40年振りに狭く急な表参道駅の階段を上がり、地上に出た時、自分の感覚を疑った。
そこに見たのは、空しい書割の世界で、楽し気な大人たちは何処にもいない。
期待していたかつてのこの街の匂いを嗅ぐことができないまま、何に動かされているのか分からない、絶え間ない人の流れに流されるまま歩き続けた。
駅から10分も歩けば商業施設がまばらになり、急に人通りが減る。
ようやく、自分の歩くペースに戻り、家へと向かう。
クラクションやトラックの走行音を聞きながら霞坂を下る。
今は下水管となった埋没している谷筋から西へ入った一画。
時代に洩れた、標札の字も滲んだ民家が数件並ぶ。
狭いながらも木立の深い庭があり、山茶花と椿の緑に覆われ先へは視界が通らない。
その緑の後ろには、家がもう一軒ある。
しかし、それは外からは分からない。
まず、どこから家の敷地に入るのかは容易には知れない。
公道に面しているのは別の家で、そこからは立ち入れない。
脇道の坂を少し上った先にマンションがある。
その敷地の端には、キーロックのかかった小さな格子門があり、その先は隣の建物の塀との間70㎝の幅しかない未舗装の通路がある。
かろうじて踏み石が並ぶので通路なのだが、大半が草に覆われ、通路というよりもマンション脇の狭いデッドスペースにしか見えないだろう。
格子門のロックを解除し、その細い通路の中に入る。
時に、踏み石の上に昼寝中の猫が道を塞いでいる。
人がその上を跨ごうとも気に掛ける様子もない。
猫を跨ぎ越え、足元の草を踏みながら進むと、空気が味を持ったかのような清涼感に包まれる。パフュームミントやローズマリー、ラベンダーが茂り踏み石の隙間を覆うグラウンドカバーになり、踏むたびに強く香る。
マンション脇の敷地に沿って奥へと進むと、再び小さな格子戸に行き当たる。
モッコウバラの小さな黄色い花が格子を埋めている。
突然、空が開ける空間。
芝生の空間に平屋が建つ。
ここが私の東京での住まいだ。
敷地を区切るコンクリート壁とフェンスには花木や藤の蔓が絡みつき、零れるような羽衣ジャスミンの花が甘い匂いをさせている。
この庭が急拵えではないことは、これらの植物の生長具合を見れば知れる。
庭からひと棟先の屋根越しに公道を見下ろせば、青山霊園の上に空が広がり、その地平の端を薄灰色の空気高層ビルが縁取る。
東京の空を仰ぐ。
上空を過ぎるジャンボジェット。
外苑西通りを通るサイレン。
坂を削って出来たこの敷地は、他人の生活目線から完全に外れている。
この敷地の中にいる限り、私を囲むのは緑と空だけだ。
ここが私だけの隠れ家であることを示すもの、それは玄関を入ると感じられる香りだ。
私にとって、大切な香り。
美しい彫刻が施された、木製に見えるが実際は陶製のアンブルボール。
香りは其処から発せられている。
アンバーの深い香り。
ダイニングキッチンが部屋の半分を占める広くはない平屋。
一枚板のテーブルには夜の嵐で折れたハナミズキの花枝を活けた。
別室はバス、トイレと洗面台、洗濯機が並び、芝部に面した開口部のおかげで空間がそのまま庭へと続くように感じられる。
ダイニングの壁には作り付けの棚、その上の高い天井までは薄いカーテンが覆いその向こうが寝室となるロフトスペースだ。
この家の持ち主、そして施主でもある女性は高齢で、現在は夫とコペンハーゲンに住んでいる。そして、彼女は外への通路に隣接するマンションのオーナーでもある。
彼女は建築家である友人にずいぶん前にこの家の建築を依頼して建てたものの、日本に住む予定はなかったのでウェブサイトに貸家広告を出したところを、それを私が見つけた。
空き家として荒れ放題になるよりはと、破格の家賃で提供してくれている。
不動産業者を介さずに直接この家を借り受けているため、彼女以外は、誰も私が此処に住んでいることを知らず、訪ねても来ない。
私は自宅住所を公にはしていないが、万一ここの所番地が知れようとも、誰かがこの場所に踏み込むことは容易ではないはずだ。
郵便物は全て私書箱宛にし、滅多にないが、届け物は表のマンションの管理人室気付で預かってもらっている。
デリケートな仕事から私生活を完全に切り離すために、この家は最適だった。
そして、もはや消えてしまった、かつて自分が好んだこの街の痕跡をどこかに探し求めて、この場所に行きついたのだとも思う。
***
深夜2時。出勤するために家を出た。
さすがに交差点を通る車も少ない。
丑三時というのだろう。
首都高速の高架が作り出す霞坂の陰、清められることのない空気が坂の下に滞留する。
静けさが感覚を研ぎ澄がます。
谷筋にある外苑西通り。
都心のモニュメントである青山墓地の下。
高い湿度と相まって、重く蠢く黒い空気は、日中でも交差点を渡る人々に無意識の緊張感を与える。
何も通らない深夜の交差点で信号待ちをしていると、冷たい風に触れた気がした。
そして、突然、それまで完全に忘れていた記憶が蘇った。
子供の頃、私は祖父に連れられて青山霊園にある先祖の墓の掃除に行った。
蝉しぐれの中、水道で水桶に水を汲み運んでいると、顎から汗が滴った。
広大な青山霊園には大小さまざまな墓がある。
その中で、大きな墓石のある敷地を見た。
そこだけは、もはや大木となりつつある木立に囲まれ、手入れが間に合わずに夏草が丈高く勢いを増していた。
ここは、誰か偉い人か有名人かの墓だろうか。
子供心に興味をそそられ、その敷地の木陰に入り、墓石に掘られた文字を読み取ろうとした。しかし、苔に覆われ風化しかけた文字は読めなかった。
ふと、人影を感じて慌ててその敷地を出ると、先ほど立っていた場所のすぐ後ろで男性の話し声が聞こえた。
何時の間に敷地の中に居たのだろう。
勝手に入ってしまった自分は、きっと不審に思われただろう。捕まえられて叱られるだろうか。
そっと振り向き、草陰から覗いてみると男性が二人。
忘れられないのは、ふたりとも真夏なのに長袖の制服を着て、制帽を被っていたこと。
そして、腰には銃剣を下げていたこと。
私は、それを見ると走って祖父が草刈りをしている自分の家の墓に駆け込んだ。
10歳くらいの事だったと思う。
のちに社会科の教科書の中の写真で、彼らの姿を知った。
ふたりの男の姿は、見た戦争中の旧日本軍の姿にそっくりだった。
****
家を出て、徒歩で霞が関に向かい午前3時の僅か前には通用口に着いた。
守衛にIDを提示し、庁舎のオフィスに入る。
コンピュータ画面に映るスイスの上司と挨拶を交わす。
「東京のオフィスには慣れましたか。先月までの新しい状況があれば報告してください。」
私は、数年後に批准予定の国際条約に関連し、国連と日本政府との間の交渉管理窓口として単独で日本に派遣されてきた。
任務の中には調査活動が含まれる。
安全保障にかかわる資産管理状況の調査だ。
日本ではこれまでほとんど意識されていないことだが、大学や研究機関で開発途中の技術や機器の中には軍用兵器に転用できるものが少なくない。
たとえ、いずれも未完成であったとしても、それを速やかに完成させるためには潤沢な予算と人のリソースを投入することを厭わない他国の政府や組織にとっては、宝の山だ。
そしてその宝は、この国の中では警備されることも無く野晒しになっている。
この日本国内に在る限りは未完成のまま日の目を見ることのない宝の技術は多い。
誰も急いで技術を実用化まで完成させようとしていないからだ。
日本において、アカデミアの基礎研究に投じられている研究費は先進国の中で突出して低い。
国内の顔を知った競合相手の誰もが予算不足であることは自明で、そこには競争はない。
国際競争には既に惨敗していることは誰もが自覚している。
警戒感の無い日本が実際に国際レベルの秘匿や資産管理が可能なのか、どういったガイドラインが必要なのか、状況を分析し国連の外郭機関に報告することが私の本当の役目だ。
調査のためには、組織の内部に立ち入る必要がある。
インサイダーである必要がある。
日本国内で複数の大学の研究職員の身分を取得した。
そして、私は時にはスイス共和国の外交職員でもあり、企業のエンジニアであり、科学博物館の客員研究員でもある。
その何処かでは本名とは異なる名前である場合もある。
事実、名前の異なるパスポートを2つ持っている。
両方とも正規に発行されているパスポートだ。
ゆえに、個人情報について余計な面倒が生じることは徹底して避けたかった。
調査作業中に緊張感が緩めば、余計な疑いをもたれるだろうし、私自身もこの複雑な自分の立ち位置は保てなくなる。
日々、退屈な公務員か、あるいは熱心な研究者か技術者にしか見えないように振る舞う。
週一日は社会人研究員として量子コンピュータを開発している研究室に通う。
Tシャツの上に着古したコットンのジャケットを羽織り、背中にバックパックを負うガラス戸に映った自分の姿は、学生集団の中に紛れている。
ある日はスーツで企業に向かう。
大学や企業では事前調査を裏付けるような杜撰なセキュリティを目の当たりにした。
画像と音声で状況記録を積み上げ、スイス本部にいる上司に報告した。
このミッションでの成果を得ているようでもあり、母国の実情に失望もする。
***
仕事を終えたある夕方。
青山一丁目で地下鉄を降り、家に向かう。
目抜き通りの明るさとビルの裏の脇道の闇。
この国は、一体どこへ向かおうとしているのだろう。
世界の先進都市としての精密なシステムが回っているようにも一見、見える。
しかし、守るべき資産が何であるのか、流れ、変化し続けている世界が持つ視点をこの国は分かっていない。
何ものにも代え難かったかつての文化の街を駆逐した、薄っぺらな資本主義に固執する国。
明るすぎる看板が並び照らす人混み賑わう街では、青山霊園の下の淀んだ空気に触れた時よりもはるかに冷たい寒気を、背筋に感じた。
街を抜け、住宅街に入り、細い路地の闇の中を抜ければ家に着く。
庭ではコオロギが鳴いている。
玄関のドアを開け、家に満ちたアンブルボールからのアンバーの香りを感じる。
明かりを点けずに傍の椅子に座った。
窓の外から微かな光が漏れ、室内に淡い濃淡を生む。
かつてのこの街の空気を思い出そうと試みる。
目を閉じると、アンバーの香りが日々のことを思い出させる。
40年前、私がイギリスに発つ前日に、このアンブルボールを送ってくれたのは、高校の同級生の少女だった。
彼女の母は青山で小さな輸入雑貨店をしていたこともあり、いつも大人びた格好をしていた。
大人に向かって精一杯背伸びをして、東京を去る私にこの香りを贈ってくれた。
あの頃のこの街が似合っていた彼女は、今はどうしているのだろう。
私にとって、永遠に憧れた大人の世界は、今はこの小さな一画にだけ密かに息づく。
この香りがあれば、いつでも戻れる。
私自身の子供の頃の記憶、この街が孕んできた多くの記憶。この国の記憶。
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