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Short story_恋香

Fleurs d’Oranger _ SERGE LUTENS_ COLLECION NOIRE _
composed by Christopher Sheldrake, 1995
セルジュ・ルタンス
フルールドランジェ

香りから想起される物語
物語から想起される香り

貴方はこの物語からどんな香りを感じますか?
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急峻で入り組んだ山と海に囲まれ、
平坦なのは路面電車が走る谷筋の道だけ。

漁業や造船で栄えた小さな街
民家と民家の狭い隙間を縫うように続く延々と終わらない上り階段。

その頂上を見上げるとシロ、黒、雉トラ、三毛、いろいろの猫たちが気ままに寝転び、座り、毛繕いの最中だ。
そこから先には遠く段々畑の続く斜面を囲む緑色の蜜柑畑が広がる。

春、白い花が山を覆う。
小さな5弁の花。

目を閉じ、その香気を吸い込むと、次第に気が遠くなる。
香りに酔い、いつの間にか別世界に連れ込まれている。

そこはとても心地よい世界なのだけれど、自分の世界ではない。
突然、元の世界に戻れなくなりそうな気がして怖くなり、家へと向かって駆けだす。

緑の濃い木々は秋になれば鮮やかな蜜柑の珠を無数に付ける。
学校の帰り道、実が熟れるのを待たずに、木から実を千切って皮を剥いてひと房ずつ大切に食べた。

酸や油分がささくれのある手に滲みる。

良く馴染んだ蜜柑の香り。私の世界はこっちだと思う。
食べたり笑ったりしている私の世界。

白い花の香りの世界ではない。
あの花がこの蜜柑と同じ木から生まれてくることがいつも不思議だった。
太陽に熱せられた校庭の土埃や、手洗い場の石鹸、給食の匂い。

そんな小学生の日常とは違う世界があることを、蜜柑の花の香りは密かに私に教えてくれた。

6歳の背中には、ランドセルはまだ大きい。
靴に足を入れてバタバタと玄関を出ると、庭に紛れ込んだ三毛猫を見付けた。
その後を追って、暫く手入れのされていない菜園に回る。
カラスノエンドウやスズメノカタビラ、引き抜いてみては、葉や花の蕾を潰してみる。
「遅刻するわよ、早く学校に行きなさい。」
縁側から母の声が促す。

自由な服で学校へと向かう小学生の流れの中で、制服に帽子を被った私の小さな姿は一人目立っていた。その足は、多くの子供が入って行く近所の小学校の門の前を通り過ぎ、その先30分以上をかけて、別の小学校に向かう。
国立大学の教育学部付属の小学校に通う。
何故近所の子たちと同じ小学校に通っていないのか、それを疑問に感じるには私はまだ幼過ぎた。
ただ受け入れていた。
というよりも、通う学校がどこであれ、私にとってそれは問題ではなかった。
どこに通おうとも、学校での集団生活には向かない子供だった。

校庭での体育の時間。
校庭の脇に生えている茗荷の葉を千切った指先、紫蘇の葉や菊の蕾を潰した時の苦い香りに、ひとり集中している。
体育の授業で何が指示され、ほかの皆がどんな行動をしているのか、そのことよりも、菖蒲の花に顔が近づけて感じる清涼感のある静かな香りが私の興味をひいていた。

それを見た担当の先生は、私を叱ることはなく、授業全体が滞らぬよう皆には次々指示を出していたが、私のことはそのままそっとしておいてくれた。
私が、物事に集中できないのではなく、授業に集中する代わりに何か別のものにひどく集中している様子に気を留めていた。

教育学部付属小学校は、地域の公立学校と異なり、教員養成に特化した学校だった。各教科担任の先生は、子供の先生であり、かつ大学の先生でもある。

そこに入学する子の多くは親が教育に熱心な家庭の子供だった。保護者名簿の職業欄には、裁判官、医師、弁護士、銀行員、大学教員などその県内では教育熱心であっただろう親の職業が並ぶ。

しかし、我が家の両親はアカデミックな意識は高くなく、また地元出身者でもなかったから地域の教育や学校について無知だった。

私が小学生になろうとするときに、商船の船長を引退し水先案内人をしていた祖父が

「この子は変わっているから、普通の小学校でないほうがいいかもしれない」

と言ったひとことで付属小学校に入学する流れとなった。

私は、、読み書きや算数を解くことに問題はなかったけれど、学校での勉強や生活は好きではなかった。

皆ができることで、私だけできないことが多く(水泳の後の着替えとか、色と色の名前が皆とは不一致だとか)、一方で私にとって学ぶまでもないような内容が授業にはあって、皆が答えられないことが不思議だった(天気のことや植物のことが多かった)。
もっと苦手なのは給食で、殆ど食べられなかった。

どこか具合でも悪いのかと初めは心配した先生も、毎日のことなので、ひどく偏食な子なのか、と勘違いをして、母親に私の食べ物の好き嫌いを直させるように、と注意があった。


しかし、6歳の私には食べられない食材は一つも無かった。
春菊も人参も、ピーマンもトマトも、肉も魚も何でも食べた。
ただ、大勢の集団の中にいると、食欲が全く湧かなかった。

けれども、どうであれ、そんなことは私の関心事ではなかった。

小学生の徒歩通学としては長めの通学時間、一人になって歩き続ける時間の中に大いに愉しみがあった。
途中の家で飼われている犬。
モルモット。電線の鳩。ツバメの巣。空き地に生い茂る草。
烏瓜の実が膨らみ、色付いていく。
移り変わる季節。
そのようなことが全て愉しく登下校のために毎日休まずに登校していた。

ある朝の登校路、
いつものように、草に手を伸ばし掴んでは千切りながら歩いている。
それが危ないということは知っていた。

風に揺れる柔らかな緑色の草は、時としてまるで刃物のように鋭く手の皮膚を切り裂く。

でも、上手くやれれば大丈夫だ。

葉の端で手が切れる前に、茎を折って切ることがコツ。

しかし、その時は油断して草を握ったまま引っ張ってしまった。
「あっ」
小さく声を出し、思わず手を引いた。
恐る恐る、堅く握った指を開いてみたが、一見なんともない。
また歩き出したが、暫くすると手提げの持ち手の感触がおかしい。

布製の持ち手が見たことのない色をしている。
手のひらが真っ赤に染まっていた。
血が出ている。
それを見た途端に急に痛みを感じ始めた。
ハンカチで血を拭こうと、スカートのポケットを探るうちに、服にも血が付く。
それを手で拭おうとすればするほど、さらに血の汚れが広がる。

後ろを歩いていた二人の女子が普通ではない私の様子を見て駆け寄ってきた。
同じ学校の制服を着ている上級生だ。
「どうしたの、あなた血が出ているよ。」

「けがをしているんじゃない?」

二人は代わる代わる問いかける。

私は、草で切ったみたい、と小さな声で答えたが、
突然知らない子から声を掛けられたことに驚いていた。
「あら、大変。」
「学校に行って、それから保健室に行こう。」
「痛い?我慢できる?」
ふたりの女の子は私に声をかけて懸命に励ます。
近くを通る他の子たちも私たちに目を向けている。
もはや、痛みよりもこの状況の恥ずかしさに、思わず泣き出しそうだった。
それを見て、痛みの余り、泣きそうになっていると思ったのか、二人がさらに大きな声で優しく励ましてくれる。
突然、肌の色の白い柔らかそうな長い栗毛を束ねた子が言った。人形のように目鼻が整った、とても奇麗な子だと思った。
「そうだ、拓ちゃんのところに行こう。ここから近いからそのほうがいわ、一緒に行こう。」

拓ちゃん?
「みずえちゃん、先生に私が遅れるって言っておいて。」
その子がもう一人のおかっぱの女の子に言って、その子も頷いた。
「分かった。先生に言っておく。」
その女の子は、心を決めた、というふうに血の出ていない方の私の手を取って、堂々と学校とは反対側に足早に歩き始めた。
「私は江坂美緒よ。5年生なの。あなたは名前は何ていうの?一年生でしょう。」
その学校では一年生だけは制服の肩に黄色いリボンを着けることになっていたので、すぐにわかる。
「あ、あの。水口、しおりです。」
「しおりちゃんね、もうすぐそこだから、がんばって。拓ちゃんが診てくれるから。拓ちゃんはね、お医者さんなのよ。私の従兄なの。」
これから私たちは一緒に病院にいくということだろうか。
美緒さん、という少女にされるがまま連れて行かれた。

幾つかの路地を曲がって、美緒さんが連れて来てくれたのは病院ではなかった。

斜面に並んで建っている似たような小さな平屋のうちの一軒のチャイムを押した。
チャイムの音は玄関先にまで聞こえるほど大きかったが、中から人が出てくるのを待たずに、美緒さんは硝子格子の引き扉に手を掛け、ガタガタと開けようとする。

しかし、鍵がかかっていて戸が開かないと分かると、
今度はその格子戸を手でドンドンドンと叩き出した。


「けが人よ。救急よ。」と叫ぶ。
その声に、近所の人たちが窓から顔を出す。

家の中からバタバタという足音がしてガラス戸に人影が現れ、戸を開けたのはパジャマ姿の若い男性だった。

髪の毛が雑草のようだ。
私には兄弟にも親戚にも若い成人男性がいなかったし、学校の先生はいつもネクタイを締めて短い髪を整えた姿ばかりだったので、
起きたばかりの男性の頭が雑草の様になっているのを初めて見た。父親には雑草になるほど髪の毛は残っていなかったし。

「なんだ、美緒じゃないか。どうしたの。学校は。」
「大変なの。ねえ見てあげて。この子、怪我をしているのよ。」
と、私の怪我をしている方の手をとった。
私はあっけにとられて、美緒さんにされるがまま右手を「拓ちゃん」の前に出して見せる。
拓ちゃんは、腰を屈めて私の手のひらの切り傷と私の顔を交互にみて、
「ああ、これは大変だ。さあ中に入って。」
と言って私たちをその平屋の中に招き入れた。

部屋のテーブルの上には本やノートが積みあがっていた。その一角にはコーヒーの入ったマグカップと食べかけのトーストが乗っている。
スピーカーからはピアノの曲が聞こえていた。
「さあ、ここに座ってて。」
私は椅子に座らされた。
「血がたくさん出てて、大変なの。早く、この子を治療してあげて。私も手伝うわ。」
パジャマ姿の拓ちゃんに指示する美緒さんは頼もしく、美しいと思った。

「そうだね。大丈夫、直ぐよくなるよ。」
拓ちゃんはそう言って、私の頭から帽子を取り鳥の巣のようになっていた私の頭の髪の毛を整えるように撫でた。

「そうしたらさ、美緒、こっちで、この鍋をちょっと見ていてくれないか。ふきこぼれそうだったら火を止めてね。」
「分かった。」
頼まれた美緒さんは喜んでキッチンに立ち、拓ちゃんは救急箱を持ってきて消毒薬で浸した脱脂綿で血を拭いて、私の手にも消毒薬をかけた。
「沁みるかい。」
私の手の平の切り傷はとっくに血は固まって止まり、もはや何処から出血しているのかも分からなくなっていたが
改めて洗ってもらった手のひらの切り口をみると痛みが走った。
「何で切ったの?はさみか何か?」
「草。」
「草か。」
拓ちゃんは黒く大きな目をしていた。そして少し笑っていた。
もう血はほとんど出ていなかったが、拓ちゃんは大きな絆創膏をはさみで器用に切って、私の手に貼ってくれた。
「鍋、湧いたよー。」
美緒さんがキッチンから叫ぶと、拓ちゃんは戸棚から取り出したマグカップをふたつ並べ、薬缶からお湯を注いで温めてから、鍋の中のミルクをふたつのカップに注ぎ、残りを自分のマグカップに入れた。
「二人ともこれを飲んでから、学校に行きなさい。」
「あ、あの、ありがとうございます。」
私は精一杯の勇気を出して言った。
「拓ちゃんは今日は病院に行かないの?」
「行くよ、行くけど、実はほんのさっき病院から帰って来たばかりなんだよ。だから、一休みしてから行くよ。」
「夜に働いていたの?寝ていないの?」
「あんまりね。」
美緒さんは私に説明してくれた。
「拓ちゃんはね、病院で先生をしているの。お医者さんなの。」

その頃、私にとってお医者さんというのは、悪夢の中に出てくる程の怖い存在で、白髪で痩せていて怖いおじいさんだった。
苦い粉薬を飲まされる。
口の奥に冷たいヘラを入れられる。
何をされているのか分からない聴診器。

こんなに髪が黒くて若い、学校の先生のようで、しかもパジャマで髪がボサボサだったので、お医者さんと言われても私はよく分からなかった。けれど、ちゃんとお医者さんのように手当てをしてくれた。

玄関を開けた途端、蜜柑山からの白い花の香りが家の中を通り抜けた。
美緒さんの横顔や、束ねられた栗色の美しい毛をみて、その香りがこの人のための香りであったのだと、その時に知った。
決して汚れることがない、圧倒的な高貴さ。

でも、そういうことではない。きれいな子は他にも知っている。

美緒さんの美しさは、目では見えない。
私の世界とは違うと知っていた別世界が、現実のものとして目の前に現れた。

拓ちゃんは路地のところまで、遅刻をして登校する私たちを見送ってくれた。美緒さんは学校に着くと、別々の教室へと別れるまで、私の怪我をしていない方の手をずっと繋いでいてくれた。

その日帰宅して、その登校中の出来事を母親に話すと大慌てで、すぐお礼をしに行かなければと言う。しかし、美緒さんに連れられて行った拓ちゃんの家は、もはやどこにあるのか、私には道が分からなくなっていた。
それに、今、家を急に訪ねて行っても拓ちゃんがいるのかどうか分からない。拓ちゃんの外には誰もいない家だったと思う。
母はその年度の在校生名簿を開いた。
5年生で、美緒さん、という私からの微かな断片情報から母は「江坂美緒」の連絡先を探し出した。
「江坂さんって、あの江坂さんなの?」
母が何を驚いているのか、その時の私にはまったく分からなかった。
江坂医院は市内でも有名な総合病院で、明治維新のころから5代続く医家の一族だった。

原爆が落とされた時、江坂医院は自ら被災しながらも献身的に治療に当たったということで地元では君子の医家とされていた。

美緒さんは今の医院長のお孫さんだった。
すぐに母は江坂美緒さんの家に電話をかけ、美緒さんのお母さんにお礼の電話をかけて電話口で何度も頭を下げていた。

私の手のひらの傷はすぐに治った。
以来、私は登校中に道に生えている草に手を伸ばす事をやめた。
その代わりに、また通学路で偶然美緒さんに会わないだろうか、と毎日周りを見回しながら歩いた。
会って、お礼を言いたい。それ以上に、また、美しい美緒さんを見てみたい。
そして、またふたりで拓ちゃんの家を訪ねてみたい。

そのためには、また草で手を切っておいた方がいいのだろうか、などとも想像したが、困ったことを繰り返すのはよした方がいいな、と思い直した。

ところが、季節が変わっても、もう通学路で美緒さんに会うことは無かった。

暫くして、意を決して学校で美緒さんのクラスを訪ねてみた。
私が手を切ったあの日、美緒さんと一緒に私に声をかけてくれたおかっぱの女の子、みずえちゃんが教室を覗く私のことに気付いてくれた。

美緒さんはあの日から暫くして、アメリカに転校したという。
お父さんがアメリカの大学に留学するので一家で引っ越したと言うのだ。
「淋しいけれど、私、カリフォルニアの美緒ちゃんと文通しているのよ。だから、あなたが教室にまでお礼を言いに来たこと、ちゃんと伝えるから。」
彼女はそう言って、私に手を振った。

あの美緒さんにもう会えないなんて。
もっと、もっと仲良くなりたかった。知りたかった。
美緒さんの光の輪に包まれた栗色の髪の毛を思い出していた。
私と同じ制服のはずなのに、美緒さんが着ていたのはずっと素敵な服に見えた。
朧げな記憶は美化され続け、それはあの白い蜜柑の花の香りそのものだった。

私には届きそうもない世界。
神々しく高貴で慈悲深い、そしてそれは私にとっては恐れのある世界であり、憧れでもあった。
美緒さんは、拓ちゃんがいた時間のなかで、特別な人だった。

恋をするというのはそういうものなのだろう。


私が初めて触れた恋物語は、本でも漫画でもテレビでも映画の中の話ではなく、
美緒さんと拓ちゃんの間の香りだった。
幼過ぎた私の初恋の物語は、美しい美緒さんに対して、そして美緒さんの目を通じて見た拓ちゃん、そういう香りの物語。


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