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short story_聖水

ロット毎に構成が異なるため、全く同じ香りの再販は無い調香師辻大介先生のルームフレグランスの一つ、聖水。short storyに取り上げるのは、そのひと瓶が空になればもう二度と感じることのできない香りの印象の記録。

Seisui 聖水 composed by Daisuke Tsuji

土地の浄化者たちの伝説 Arabiその後

大地と水の気配のみが広がる。
動きがない。まるで静止画を延々見続けているようだ。
すべてが圧倒的な広大さで、無限に広がる空に押しつぶされるようで息が苦しい。

私の生まれ育った極東の島国では、地表は、草木や、あるいは人の造った建造物に隙間なく覆われ、地表が露な場所は限られている。ここでは大地が何にも覆い隠されることなく、露になっている。
惑星が人間と全く関係のないスケールで存在する事実を突きつけてくる。

文化財団の主催する海外文化交流事業の一つとして、海外でのクラシック演奏会が毎年一回、企画される。今年は資源エネルギー開発企業団の出資があり、私が所属契約しているオーケストラからメンバーが選ばれ、中央アジアの数か国で演奏する。
幾つかの国は、大国からの独立を果たした後、長年に渡る内乱を経て政情が落ち着いてからまだ日が浅い。しかし、それら諸国は天然ガスが採れることから近年、急速に関係を深めている交流国だ。

メンバーの一人となった私は、自分の分身、或いはそれ無しには私自身の価値すら覚束ない相棒のチェロを抱えてタジキスタンに渡った。オーケストラの他のメンバー数人とはトルコからの搭乗便で一緒になり、日本から延べ48時間以上をかけて会場のある現地都市に到着した。リハーサルまでにはあと1日ある。
昨日、日中はほかのメンバーとともに行動していたが、今日は一人、少人数の観光ツアーに参加することにした。
タイから観光で来たという家族4名と、オーストリア人夫婦のバックパッカーと一緒に、スライドドアが完全には閉まらないバンに乗り、内陸にある、とても美しい空を映す湖という、その地の観光名所を目指す。

街を出ると、延々、単なる平らな土地を車は走り続けた。道らしい道はない。信号もない、風景も全く変わらない。移動しているはずだが速度感覚が持てない。しかし、リアウインドウの視界を遮るほどの激しい砂ぼこりと車体の振動に、ふと速度メータに目をやると150km/h近くのスピードが出ていた。
いつバンのドアが壊れて開き、外に投げ出されるかと思うと、腕が痺れるほどの力でシートの縁を握るしかなかった。1時間弱でその有名な湖というところに到着した。

湖の水面は水鏡となり世界のすべてが逆さに映りこんでいる。
無限の深さの空が足下にも広がるようで、眩暈を起こしそうで水際から離れた。
景色は壮大だ。
一生のうちに何度も見ることができない絶景なのかもしれない。
ただ、慣れぬ空間スケール、日ごろの感覚が通用しないせいか、その空気の清浄さや静けさに反して、違和感の方が強く、必ずしも居心地が良いとは言えない。

湖の対岸、遠く先の岩肌の斜面に小さく建造物らしきものが見える。
ガイド兼運転手に、あそこには街があるのか、と尋ねると、あれは遺跡だという。
どれくらい古い遺跡なのかと聞けば始まりは分からないが、つい50年ほど前まで人が住んでいたらしい。

この地では、遺跡なのか、古くから続く現住建造物なのか、そこには境目などないのだ。
そんなことを気にするのは私が自分の住む国の常識に私が囚われているからだ。

興味があるなら近くへ行ってみることはできる、とガイドが言う。
一通り湖を含む風景を写真に収めてしまえば、他のツアー客もこの地ですることはもう無くなってしまったようだ。誰からも反対の声はなく、私たち一行はその古くからある小さな街のような、廃墟のような、遺跡のようなところへ向かうことになった。

あっという間に、目的の遺跡に到着した。
距離を考えると、いったいどれほどの速度で走ったのかを想像し怖しくなる。
砂ぼこりを上げてバンが停車し、ゾロソロと我々はその地に降り立った。
複数の建物跡がある。やはり街のようなところだったのだろう。斜面からは遥か先に湖を見下ろす形になる。そこでは建物が思いの外しっかりとした石組で作られており、平屋だけでなく小さな城のような建造物もある。

風化し、形をとどめていない壁だったのか塀だったのか分からないものを手でなぞると、彫刻が施されているのが見てとれる。ヤシの木のような、何か植物のモチーフだろうか。この岩山だけの土地に、果たしてかつて草木などが生えていたのだろうか。

なぜここに人が住まなくなったのかとガイドに尋ねた。
最近になって水が無くなったからだという。
しかし、すぐそこに湖があるではないか。
ガイドの説明では、その湖はかつて対岸が見えないほどの海のような大きさだったようだ。それが年々小さくなり、今のような姿になっている、いずれは消えてなくなるのかもしれないという。

かつてそこは桃源郷と呼ばれ、多くの植物が茂り、そして豊かに果物が実る土地だったという。
土地の水枯れと砂漠化という事変がこの街を無人の遺跡に変えてしまったのか。
彫刻にたまった砂を掻き出すように手で探っていると、植物のモチーフの続く中、ところどころ丸い陥没がある。砲弾痕、か。

突然鼻に鉄の匂いが流れ込む。
鼻血でも出したのかと慌ててハンカチで鼻を抑えたが、血は出てこない。確かに血の匂い。それもとても強い。
少し離れた場所にいる他の観光客達は何も感じていないのか。私だけか。
匂いの出どころは自分自身ではないようだが、どこから流れてくるものなのかは分からない。
突然、影に覆われたような暗さの中にいるのを感じ慌ててサングラスを外した。しかし、先程まで眩しくてサングラス無しではいられなかったのが、今は景色が暗い。青いまま、雲一つない空の下、何がこの広大な地表にこのような影をもたらすというのか。
時差や旅の疲れ、言葉のコミュニケーションの不都合、そしてこの広大すぎる惑星の風景に、少し感覚が変になっているのかもしれない。
明確に強く感じられた血の匂いは、突然消えた。同時に闇が消え、そして、目はやはり光を眩しく感じて、慌ててサングラスをかけなおした。

何故人々がこの街から姿を消したのか、水不足のためだけなのか。
私はガイドを掴まえて問いただした。何があったのか。石の彫刻の中に見つけた丸い陥没が気になったからだ。
ガイドは私の英語が分からない、或いは答えたくないと言ったジェスチャーを繰り返す。
私のあまりに執拗な問いかけに、タイ人が割って入り、そろそろ帰りたいとガイドを私から引き離し車へと促した。

その後からだ。
とうに忘れたはずの、10年以上も昔の付き合っていた男の事。名前すら出てこないのに、傷つけられた時の気持ちのみが鮮明に蘇る。湧き出す怒りと悔しさ。今、その男が目の前に居たのならば首を絞めそうなほどの怒りが沸き上がる。
別れることになった当時すら、それほどまでの怒りはなかったのだが。むしろ、その男の言動には呆れ果て一刻も早く忘れたいとしか思っていなかったのだが、今はなぜか怒りが噴き出している。
それだけにとどまらなかった。
子供の頃、裏切られた期待。今日は連れて行ってくれると約束したのに、一向に出かけようとしない母親。やがて陽が傾きだす。早く行かないと、早くいかなければ、と強く思うのに、母にはその気配もなく、いつまでも部屋着のままで出かけるための身繕いをしようとしない。その顔は目も鼻も口もない、白紙ののっぺらぼうだ。恐怖、怒り、悲しみ。
私の母親は13年前に亡くなっている。なぜ、今こんな事ばかりが頭に浮かぶのだろう。なぜ、忘れていたことばかり、記憶のゴミ捨て場の中のどうでもよいものが溢れ出てくるのか?それも怒りや、悲しみ、怨みばかり。


気持ちは明日のリハーサルと本公演のことに向けていなければいけない。
チャイコフスキーを頭の中で奏で、その流れを確かめる。自分のパート。よく気を付けてないといつも同じところで音のキレが悪くなる。
頭の中に知らない男が現れる。返せ、返せと叫んでいる。こちらに向かって走ってくる。いやだ。知らない。知らない男だ。誰?
いつの間にか激しく揺れるバンの座席で眠っていたようだ。目を覚ますと大量の汗をかいていた。
何故だろう。
古いことばかりを思い出している。あの廃墟の街を訪ねてからだ。

ホテル近くでタイ人家族とバックパッカー夫婦に別れの挨拶をし、ひとりバンを降りた。
まだ陽は高く、すぐにはホテルの部屋に戻る気にならず、モスクの前に開いていた小さな市場に入った。あてもなく、スイカの山やキュウリの山を横目に、小麦や肉が焼ける匂いの中を進む。

旧ソ連時代の巨大なモニュメントや人物像。金色の直線。アラビア、イスラム、ロシア、そして摩崖仏の顔はギリシャ彫刻を想わせる。違和。すべてが不愉快な冗談のように感じられている。
元に戻してほしい。返してほしい。返せ。え、何を?

私は、今どうかしてしまっている。きっと旅に疲れているのだ。

突然腕を叩かれて、はっとした。
前歯が無い小柄な男が私に何かを押し付けてくる。
No. I don’t need it. No.
慌ててその手を振り払い、足早に去ろうとするがどこまでも走って追いかけてくる。
No money.
物乞いなのか。市場の人込みの中を小走りに抜け出す。
You don’t need to pay.
No money. Gift, gift.
息が切れ、小走りをやめた。男は私の正面に回り、giftだと言って、手にした小瓶を私の手のひらに押し付けて、そして去っていった。

ガラスの小瓶の中には色のついた液体が入っている。危ないものだろうか。粘性はないようだ。この黒ずんだコルク栓を取ると何が起こるのだろう。

知らない人から物を貰ってはいけない、子供の頃、親や学校からそう教えられた。
知らない人から物を貰う機会など子供の頃はそうそうなかった。

私はもう子供ではない。そして、今ここは日本ではない。

少し歩いた先のモスクの前の階段。玉ネギを載せたような塔。過剰な装飾。何人かが腰かけている塔の根元の石段に、私も腰かけてみる。石の壁を背にしていればいくらか安全な気がした。
そこで、中身が決して素手に付かぬよう注意深くガラス瓶のコルク栓を取り外した。
そして、得体の知れない液体に対面した際に、多くの人がそうするのと同じように、そっと鼻を近づけた。

それはもはや香りを越えて、光となって私の中を照らし、貫いていった。

その夜、夢を見た。
深すぎる悲しみに、私の意識のみが夢の中に目覚めた。悲しい。唯々悲しい。真っ暗な夜の世界。
小さな明かりを見つけた。その光を頼りに近づいて行った。
何かが聞こえてくる。
ワルツのようで、転調を繰り返す、聞いたことのない音楽。
何という楽器なのだろう。ギター?琵琶?そしてパーカッション。笛?聞いたことのない空気の震え。
見上げると、天に散りばめられた星は赤や青、オレンジ、に輝く星。
新月の夜だ。
地面に焚かれた火に近づく。
鈴のような音。高い音、低い音。人が舞っている。

美しい衣装。数人が舞い、数人が演奏している。星のように輝く宝石が火の光に煌めく。
私はただそこに立ち、漆黒の地上の夜闇の中、繰り広げられる火の周りだけのその小さな祭りに見入っている。
幾つかに分けられたれた松明の火が照らしたのは、昼間見たあの湖のほとりの街の廃墟だった。
花の匂いがする。フリージア、ジャスミン、ローズ、アイリス、香りは一様ではない。
音楽、光と同じように、揺らぎ、そして流れ動いている。
時折、火柱が渦を巻いて高く上がる。まるで天へと上る竜のようだ。
香りの心地よさが、怒り、悲しみ、怨み、苦しみを、忘れさせてくれる。
徐々に愉快な気分へと変わっていく。
音楽に交じり、唄も聞こえる。聞いたことのない言葉。とても心地よい響き。
気持ちが前へ向いていく。過去に強く引き寄せられていた記憶が解き放たれ、今の心地良さに、安心して酔うことができる。
気が付くと、自分も舞に加わり、音楽に合わせて踊っていた。輝くような香りに包まれた空間。
そして、廃墟の建物から灰色の煙が捻じれ渦巻き、炎とともに天へと昇っていくのを見た。
私は踊り続けていた。
螺鈿の細工の美しい琵琶。それを掻き鳴らして歌を唄う小柄な男。その男の顔をどこかで見たことがある。前歯を失っている顔。どこかで、どこで。

顔に射す朝日の光で目が覚めた。目にしたのはホテルの部屋の天井だった。
急いであの小瓶を探した。あの香りを確かめたい。あの香りだった。あの祭りの中で確かに感じた香り。
サイドテーブルの上の小さな瓶からはコルク栓が抜け落ちている。瓶の中は空だ。
中にあったはずの香水は全て揮発して無くなっていた。
空になった瓶を鼻に近づけてみる。涙が溢れる。美しい、香り。不思議な集団が見せてくれた小さな祭り。今、心が安心と幸福に満ちている。

古く、シルクロードに点々と伝わる伝説***********

命あるものから流れた血が土地を穢す。黒い闇が穿たれ、闇は直接宇宙の始まりにつながり、それは生命とは逆の時間に向かう。その闇に触れると、逆向きの時間の流れに呑まれる。

闇の穴を埋め、新たな生を生む土地へと蘇らせる、土地を祓う者達がいる。旅を続け、土地を浄化していく。

風を起こし、良い匂いのする煙を自在に操る者達
闇として濃く漂い、その土地に滞留しているものを天へと送り流す

誰もその者達の正体を知らない

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