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XXVI.目に見えないもの

天然香料を組み合わせる調香を通じ、心に強く揺さぶられて固まってしまった感覚の開放や、嗅覚を使って感覚を高めていく調香を行っています。何を心地よいと思うのか、本来それは人それぞれ。けれど、社会生活の中でそれは巧妙に抑え込まれている。真の快に気付くこと無しには、真の幸はない。
私たちは自分で意識できる領域だけでできてはいません。60兆ともいわれる細胞の命、連携、協調、物質の共有、それらを無視して脳の意識の暴走に任せていても、快は見つからない、というのが経験的に分かってきました。

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XX.【受付】調香室 Śūnyatāスニャータ 2019年 個人調香・調香体験

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目には見えないもの:

人が心に浮かべるイメージはもちろん他から直接見るということはできないのだが、人は、他人の中に浮いているイメージを読み取って、共有する感覚を持っている。

子がある年齢になると、おままごとが始まる。架空の家庭の食卓で目には見えないご飯が供される。人形遊びでは、折り畳みの裁縫箱が船に見立てられ、人形を載せた豪華客船で架空のクルーズが始まる。

茶室の中に入る大人達は、亭主が愛でる道具の大切さという感覚を共有し、一座を建立する。ひび割れた古茶碗に対する感覚、亭主の想い、心が共有されなければ茶席は成り立たない。茶事では数々のメタファーの中に亭主が意図的に込めた趣向を共有できた瞬間の歓びを楽しむ。

表立って見えることのないイメージを、共有する力、読み取る力は、もともと人に備わっている感覚で、或いは、鍛錬によって究極に高めることができるものでもある。視覚、嗅覚、聴覚、味覚、触覚、いずれにも入らないものだが、間違いなくある種の感覚の一つである。

イメージを共有する意図のなかった場面であっても、ふとした時、短い時間で、他人のイメージを垣間見る、または読み取られることがある。人の見た目、会話には表されない、または巧妙に隠された、心に浮かぶそのイメージを、読み取る感覚が存在する。そして、その感覚は発達している人とそうでない人がいる。その感覚が発達した人はそうでない人の心やイメージを読み取る。読み取る感覚の無い人は、自分の裏側が読まれていることには気が付かない。

立ち入り禁止の標札やピクトサインが何処にもなかったとしても、立ち入ってはいけないと感じられる場所が存在する。誰もその場にいないとしても、些細な表現に感じられる意図を読めれば、止め石や結界の向こうに足を踏み出すのは憚られる。何かを感じた時、どう行動するかは感覚と全く別の問題なので、判断するためには、別の教育や訓練が求められる。感じる力が強ければいいと言うわけでもなく、もう子供ではないのならば、無いかを感じられたならば、その後の行動の方が重要になる。

見えないものを見る人は、瞳に光が宿る。脳を透かすように瞳から光が漏れている。感覚の無い人は何よりも目に違和感がある。薬物などで心と意識を解離させた人も、それは目に現れる。意識と解離した心には、読み取れるものが無い。闇に落ちたものを共有することは難しい。

個人差によって感じられるか感じられないかが分かれるのでこの感覚を万人の間で定義、共有することは難しいのだが、読み取るという感覚は人の心に対するだけのものではない。この世の仕組み、宇宙の成り立ち、過去から未来へ脈々と流れている何か、そういったものを捉えるのも、それは直感というか、何か、見えないものを掴む感覚の一つだ。

科学は自然現象を、万人の目に見えるように表示することがその役目である。今やそれを行うための対象は無限に存在し、誰であっても科学に携われる。研がれた感覚を持たずとも。

例えば、40億年前に地球上に生命が発生した起源。科学は真に何が起こったのかという唯一解を示せるだろうか。様々な試みが進められている。実験、理論計算、それらは唯一解であることの証明をするのではなく、矛盾のない新案の提案である。まるで人の想像力の数だけ案が存在するようだ。現象を万人の目に見せるための手続きの取り方は科学という領域では確立されている。つまり科学が示すことと真実との間には原理的な解離がある。


知りたいものが、科学手続きに示された案というよりもむしろ、真実そのものであるならば、それは、およそ5億年程度を費やし生命を発生させた初期地球の姿から、イメージとして感じるしかないではないか。
逆に、そのイメージからは大幅に解離していても、科学の手続きに矛盾が無ければその案は世に放たれる。そのイメージを真とするか否とするかどうかは、本来は個人の感覚に委ねられる。


科学の手続きに囚われるあまり、イメージを軽視したものか、或いは真実を捉えようとする感覚の弱さのためか、多様な提案の多くが真実から大幅に外れている。過去に起きた真実は一つしかないからだ。

触、視、味、聴、嗅には収まらない感覚は歴然と存在する。調香は直接その感覚と関連があるのか分からない。しかし、自分が調香師となる以前、あるいは調香を始める以前とは、その感覚が変わってきたことは分かる。




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