アブサン

short story_FOU D’ABSINTHE

親しみを許した笑顔を向けてくれたのは、あのひとの中に僅かな領域でも僕だけの場所が生まれたからだった、と今でもそう思っている。その場所は、確かめようと触れるなら崩れる砂の山のようで、北半球の12月の陽射しのように繊細で、僕らの間だけに共有されていた静かな場所だった。

皆はそれを僕の幻想だと笑い、早く正気を取り戻すようにと怒る。しかし、その世界は今もここに存在する。ヘキサゴナルのキャップを外しひと吹きしたスプレーの霧の中に、あのひとの姿、立ち振る舞い、視線、声、性格、存在のすべてが蘇り、その時、僕は確かに幸福なのだ。僕があのひとの高潔さによって罪人となるのであれば、喜んで罰を受けよう。

あのひとは多くを話さない。けれどもその瞳は饒舌だった。濁りも色もない水晶のような、その精神がそのまま外見に現れたような姿。あのひとに見つめられると、自分が特別な人間なのかもしれないと思い上がってしまう。

自らを飾ったり、他に対してアピールするような性質とは程遠い、むしろいつも自らの存在を感知されないように振る舞うあのひとが、敢えてあの時、纏っていた香り。しかしそれはとても饒舌に、あのひとを物語る香りだった。その印象だけが、僕にあのひとの本当の姿を教えてくれた。

Inspired by L'Artisan Parfumeur FOU D’ABSINTHE
composed by Olivia Giacobetti
戯れと裁き

金木犀の生垣が続く住宅街の夜の坂道。
酷暑の数か月間忘れ去っていた夜風の冷たさを頬に感じた。強すぎる香りに思わず鼻を覆いたくなるほどの芳香がオレンジの花房から流れ出す。ビルの屋上、ふたりだけの観月の茶会を終えた頃には、日付が変わっていた。車を拾って帰るというあのひとを大通りまで送る間、刹那、客と茶屋の亭主ではなく向き合うことができた。

あのひとは黙ったまままだ湿度が高い空気の中を探るように彷徨い、ふと雑草が生い茂った空き家の茂みの陰に顔を寄せ、目を閉じた。烏瓜が絡まった柊木犀。僕の存在など忘れたかのように長い間そうして、そしてまたゆっくり歩き出した。三日月と街灯の白い光の下を、黒い影が花から花へ、漂う。あのひとの後ろ姿が離れた後茂みに近づくと、小さな白い花を僅か5つほど付けた枝からは冷たい香りがした。金木犀の甘い香りの背後で冷やかに香る柊木犀を嗅ぎ分け、あの時、あのひとは何を思っていたのだろう。僕が見ていたのは蝶が落とした影のほうだ。自由に風の中を漂うあのひとは、どうしたって捕えることはできない。

都心の瞬く光を見下ろす丘の上。最後に聞いたさようならの声は、どうか今日一日を終える挨拶であってほしいと、その夜、月を見上げ祈った。タクシーのドアが開き、軽く手を振って別れた。そんな夜のことがこの季節が来るたびに蘇る。

白い病棟の壁に欅の濃い影が落ちる。自分に残された時間を数える今となって、皮肉にも幾らでも自由な時間がもてる。香りの中で色褪せない記憶を、書き残したい。まず、あの日のことから。

竜胆と薄を活けた竹籠。違棚のある壁には漢詩の軸を掛けた。景徳鎮の茶器に障子越の陽が降り青く輝く。炉に掛けた釜には湯が沸く。いつもと同じように静謐に整えられ、準備が整った店の空間は、客を待っていた。しかし、その日、僕が作った結界は破られ、その日の設えが僕が見た最後の茶室の光景となった。店のガラスのドアの向こうに影が差す。見慣れぬ黒いバンが停車し、大柄な男たちが歩道に降り始めたのを見た。店のドアが開き、5,6名の男達が雪崩れ込んでくる。背中に幾筋も深い横皺がある安い生地のスーツ。もはや白ではないワイシャツ。この場の設えには到底沿わない無神経な足音で、結界を踏み越え入ってくる。

僕はどこかで、いつかこんなことが起こることを予期していたのかもしれない。ただカウンターの内側で、諦めにも似た気分で男たちの侵入を許していた。男たちは散り散り、カウンター内の棚や引き出しに手をかける。目の前ですべてが壊されていく悪夢を、観客として眺めているしかない。太った男が、僕以外誰も立ち入ることのなかったカウンターの中に入ってくる。目の前に突き出された紙がガサガサと不快な音をたてる。意味をなさない文字の羅列。読み上げられたとて同じこと。

僕が守ってきたこの空間。この場所に層をなす私と客人たちの幸福な記憶。今朝焚いた香が祓った空気を、缶コーヒーの香料、ニコチンとタール、酸化した油の匂いが穢す。もう元には戻らない。書類が何枚も目の前に出されていく。警察だろうが外事部だろうが税関だろうが、そんなことは、僕にはどうでもいいことだ。

再び入り口のドアが開いた。招かれざる男たちがひしめき合い、見通しの効かないこの店内を見て、客ならば帰ってくれることを願った。そして、この店がここにあったことをどうか、忘れてほしい。
しかし、開いたドアのガラスに見たのは、あのひとの姿だった。慎重にドアを開け、いつもと同じようにゆっくりと敷居を越えて店内に入ってくる。ずっと待ち侘びていたのに、今は、ここには来てほしくない。全く場違いな状況だ。

今日は、僕はあなたに最高の茶を淹れられそうもない。男たちの体の隙間から見える姿。せめて、あなたのための茶席が失われてしまったことを伝え詫びたい、言葉を交わしたいとあのひとのもとに向かおうとした。その肩を、男たちが二人がかりで掴み、部屋の奥へと引き込もうとする。無意識にカウンターの楓の板を強く掴んだ。

黙って僕を見るあのひとの瞳はいつもと変わらない。澄んだまま僕に向かっていた。見たことのないスーツ姿のあのひと。背の高い男の背中がそのひとに近づき何か言い、書類や鍵やらを手渡し、何か言って頭を下げて離れた。カウンターの中のものを乱雑に、すべて取り出しては写真を撮り段ボールに入れる男たち、店内を動画撮影する男、そんな男たちに時々目をやりながら店の隅に立っている。見たことのないあの人の姿はまるで喪服を纏っているように見えた。窓越しの抜けるような青空を背に、ただ立っていた。

なぜ、こんな男たちと言葉を交わして、なぜ僕に何も話しかけてくれないのか。そんな奇妙な目の前の光景を理解できないし、あのひとを含むこの状況を説明しうるあらゆる可能性が到底受け入れられなかった。なぜあなたは見知らぬ男たちの中に一人立っているのか。あなたを待っていたこの店と僕が破壊されようとしているのを、なぜ黙って見ているのか。  
この状況を、あなたが導いたのか。
あなたとの幸福な喫茶の時間は全てがこの悪夢の序章だったというのか。
何が起きているのか僕にはわからない。

刃物で胸を切り裂かれると、死はこんなふうに歩み寄ってくるのだろうか。男たちの侵入に対しては完全に冷静であった僕は、あのひとが黙ってこちらを見つめるうち、噴き出す絶望と悲しみに呑まれ、動悸が速まる。やがて血の気が失われていくのを感じた。意識が遠ざかる。嘘だ。あなたと僕は客と亭主としてここであんなに幸福な時間を過ごしてきたはずだ。冷たい汗が背中を流れる。耳鳴りが最大音量で頭を闇へと沈めていく。身体が倒れ崩れそうになるのを男たちが許さない。あのひとの姿がゆっくりとこちらへ近づいてくるのを最後に見た。そして、身体感覚が消えた。耳も聞こえない、目も見えない。ただ、気を失う直前、嗅いだことのない香りを確かに感じた。その香りを意識した途端、現実とは異なるもう一つの世界が僕の中に広がった。

カウンターを挟み、湯気が立ち上る。静かで、穏やかで、あのひとと僕は、亭主と客で、今日も茶を挟んで幸福な心を交わし合う。満月を見るためにビルの屋上へ案内した日。そこから眺めた儚く脆い東京。美しく僕の時間を彩った記憶で意識が満たされていく。あのひととの間にある幾つかの挿話。僕は生きながらその場で死んだ。夢を見たまま。


人の精神はかくも脆い。他方、人の精神に対して強烈な影響力をもつ特殊な人間がいる。本人がそのことを自覚しているのかどうかは分からない。しかし、容易に他人の感覚のゲートを越え精神に入り込み、その人の日々を変えてしまう。僕が開いた小さな茶屋の客のひとりとして現れたあのひと。あのひとに裁かれるべき罪を負っていた僕。あのひとは僕との距離を縮めながら僕が隠していた罪を探っていたのかもしれない。或いは、偶然に、僕があのひとの狙う対象のひとりとして存在していたに過ぎないのかもしれない。僕の罪を暴く作業を指揮したあのひとに対して、怒りや恨みを抱くことが全くできない。僕の感情は夢の中、あのひとと過ごした幸福に酔い続けている。

あのひとはいつも一人でこの茶屋に来た。月に1度程度、閑古鳥の鳴いている平日に来ることもあれば、休日の日中、私が多くの客に対応している中、空いた席にひとり収まっていることもあった。常連と呼べるほどの頻度ではないが、私が無意識にそのひとを待つようになる程度の間隔で店を訪れた。あのひとは静かにドアを開け、口を動かしながらも聞こえるほどの声を立てず、それでも視線だけで明確に挨拶をした。いつしか、根拠もなくあのひとの来訪を期待して店を開け、それが的中した日には、喜ぶ気持ちを抑えられなかった。

独り席に着く他の客は端末画面や本から目を離さずに茶が汲まれるのを待つ。しかし、あのひとは茶を淹れる私の手を真剣に見つめる。釜からの煮えた湯を湯冷ましで冷ます。棚から器を選び、温める。器が違えば熱の広がる時間も、注いだ後の熱湯の冷める温度も変わる。指先で捉える熱の感覚と、待つ間の呼吸。自分の体温が振れているようでは、茶碗の中の湯の温度を読み誤る。あのひとの瞳に見られていることを意識すると指先の感覚が安定しない。あのひとの視線に慣れなかった頃、茶碗を拭きながら布巾を2度も落としてしまった。あのひとは、見逃さなかったよと、粗相を隠そうとする子供を見つけたような、温もりの籠った目で笑った。その日は、茶葉を多めに入れ過ぎてしまった。

注文を聞くやり取りの中では、あのひとはきちんと声を出し話すので、口をきかないわけではない。しかし、殆どしゃべらず、いつも茶を淹れる私の手を黙って見ている。どの茶がいいか薦めてほしいと頼まれたこともあるが、大抵は茶の品書きを見て毎回自分で、その都度違うものを選んでいた。

あのひとはいつも、生地の美しい服を着ていた。リネンの光沢、模様織のインクブルーのシャツ、鮮やかな蘇芳色のニット。気が遠くなるような暑い夏の日の夕方、あのひとは和服で現れた。襟元を眺めていた僕と目が合い、僕は思わず
「宮古上布。」と切り出した。
「お詳しいのですね。」
「職業柄、ですかね。」
茶を味わう前、あのひとは必ずその香りを確かめる。器の温度、手触りを入念に調べているような真剣さ、注意深さ、当初同業者なのかもしれないと疑った。しかし、おそらくは単に、茶とそれに纏わるものたちを愛しているだけだったのだろう。僕とこの茶室と同じように。

海外旅行のホテル選びや高級ブランド時計の買い物計画に夢中のカップル。先物投資や財形貯蓄の話。この街に新しくできた飲食店の評判。様々な人の意識を飲み込みながら、茶は人を酔わせる。あのひとは静かに、でも確かに茶に酔い、あのひとの中で何かがほどけていくのは僕にもわかった。
景徳鎮の茶瓶。鴫と薄の絵。光が透けそうな白。あのひとはそれに見入っていた。
「眺めていると欲しくなってしまうけれど、手に入れても使う勇気はない。怖くて熱湯を注げないもの。」
「確かに、古いものだと、ひびが入ってしまうことは稀にですけどあります。」
「重陽の節句に、月見に使えたらどんなにいいだろう、この素敵な茶器。」
そう言ってあのひとは小さなため息をついた。
「でも、買えない。」
僕はカウンターを出てあのひとと並んでそ茶瓶を眺めた。
「来たらいいですよ、ここに。いつでも飾ってあります。中秋の名月には屋上に月が見えますよ。」
「そうなの。」
「この茶瓶を使って、お茶を淹れて差し上げましょう。」

それから、自分でも笑うほどに毎日天気を祈った。望む天気を人間は祈ることしかできない。9月9日、カレンダーの満月の朝に雲は晴れ、何物もこの東京の空を覆うことなく月を迎えられますように、と。特段、月見の約束などしていないのだからあのひとが来るかどうかも分からないのに。

その日、9月に入ってもなお盛夏を引きずる日中の天気に、願いが叶った子供のような喜びと、太陽光線の熱に対する疲れが一度に襲った。それでも、ひと時よりわずかに早くなった日暮れ。花瓶に生けた菊の花が空気を清浄にしてくれる。しかし、その日はいつまでたってもあのひとは、いやあのひとどころか誰も店を訪れなかった。平日にはそういうことはままある。来ぬ人を待ち続けるのにも疲れ、22時にいつもよりも一時間早く看板を下ろそうと、炉の炭火を落とす支度を始めた。馬鹿げている。いい歳をして、本当に馬鹿げている。何を期待しているんだ。自分に対する怒りとも呆れともつかない、苦笑が漏れる。喉の奥がひりつく様な、それは寂しさだったのかもしれない。茶碗を並べ片付けていると、突然の大音量の鈴虫の音が沈黙を破る。
「もう、今日はお仕舞?」
ドアを少し開けた隙間からは上半身が覗く。
「いらっしゃいませ、どうぞ。」
お待ち申しておりました。飾り棚からカウンターの棚に、あのひとのための茶瓶を移した。ルーフバルコニーに設えた、簡易茶室。小さなティーテーブルにまだ若い薄と竜胆。茶瓶は月に照らされ影を作った。とても不思議な長生きをした猫の話。その猫が、開店祝いの花のつぼみをすべて食べてしまった話。行き場のなくなった舞台役者の胡蝶蘭を預かり飾ると新装開店かと勘違いしたカード会社が何社も営業に来てうるさかった話。他愛もない話に、茶に酔ったあのひとは楽しそうに笑った。月光の下、肩にかかるゆるくカールした髪に光が溜まる。永遠を思う夜だった。

もしも、人が言うようにあのひとが僕の淹れる茶ではなく、別のものを探しに僕の前に現れたのだとしても、それでも構わない。僕はあの日この世の誰よりも満たされていた。

十年くらい前のこと。北米の不動産バブル崩壊に端を発した不景気。世界に吹き荒れる金融の風など、経済に正にも負にも貢献しそうもないこの小さな茶店には吹き込みそうもないものだった。しかし、周辺のビルが次第に消え、街にはコインパーキングが増えた。いつしか、陽が落ちると誰一人も店の前を通らなくなった。店を開ければマイナス収入になる日々が続く。赤字は9か月もの間続き、そしてその終わりは見えなかった。切り崩せる私財にも限りが見えてきた。あの時の苦境を越え店が続いたのは、あの依頼を引き受けたから。あの時の僕には、断るという選択肢はなかった。

高校時代の友人は電子機器メーカを退職し、会社を立ち上げた。八幡通りの交差点で偶然すれ違い、過去を懐かしんだ日、彼は自分の立ち上げた会社の登記の帰りだと言った。お互いの近況を話し、それからは時々、飲みに行く仲になっていた。彼が初めて僕の店を訪ねてきた日、僕は中国茶の輸入手続きの話をし、それが如何にいい加減、どころか税関としての体をなしていないか、笑い話のつもりで面白おかしく喋った。そして僕が学生時代から蒐集してきたアンティークの茶器類は、ネットに掲載したことでロシアから高額で買い取りたいとの申し出があったものの、輸出のための通関手続きがひどく面倒だという話もした。彼は大正ガラスに注がれた冷酒を飲む手を止め黙って僕の話を聞いていたが、突然、もし手続きがそれほど大変ならば、国際取引に慣れない自分を助けてはくれないだろうか、と話を始めた。話は単純だった。私の発送するロシア宛の梱包の幾つかの中に、ロシア内で配送局止めになるように彼の荷を加えてほしいという。彼を信用しないわけではなかったが、相手国が相手国なだけに、その輸送品が何であるのか後日直接確かめさせてほしいと僕は頼んだ。彼が見せた荷の中は白い粉でもなければ武器とも違う、コンピュータ基盤のような電子部品の一種のように見えた。しかも商品ではなく、サンプルであると、彼はペーパーワークに自信がないので手伝ってほしい、と言った。そして数件分の発送手数料として、その時の銀行からの融資金額を上回る額を提示した。躊躇していると、足りないのか、と聞く。既にロシアの取引先から投資を受けているらしく、彼は高額な手数料を私に支払い、私はその後何度か同様の通関書類の作成と発送を手伝った。

あの時の報酬がなかったら、私はその年のうちに店を畳んでいたことだろう。彼が事故死したと聞いたのは依頼された仕事が終わりそのことを忘れかけていたころだ。外為法違反容疑で任意取り調べを受けていたと聞いた。安全保障上の輸出規制品輸出。そのような噂を聞いた時、目の前が暗くなったが、それ以上のことは知る由もない。知ろうとも思わなかった。その後数年間、僕の身には何もなく、その件も、彼のことも、記憶に上ることはなくなっていた。あのひとが男たちと店に現れた時まで。

冷たい香り。生きることは戯れに過ぎないことを、知り尽くしたあのひとが纏った香り。虚無を飲み込んだ先にある平静、それを人は崇め恐れ、そして姿を掴めぬままに神と呼んでいるのかもしれない。神の手で裁きを受けた僕はきっと夢を見たまま、命を終えるだろう。この香りがあれば、酔いしれたまま静かに眠ることができるだろう。美しいあのひととの記憶とともに。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?