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XXIII. 纏う

電子媒体が一般的でなかった1990年代のファッション雑誌。目で浚う画像の媒体としてだけではなく、読み物としても4半世紀以上経って褪せていない。今読んでも面白いので、時々開いてみる。当時のファッションは纏う人の生活を強く反映し、そのスタイルからはシンボリックな芳香が香り立つ。ファッションコンシャスな気分でない時には、真似ることが憚られる香りの纏い方があった。

2019年。誰もがあらゆる多様なファッションを手に入れることができるようになった。中学生ですらユニクロやZARAに母親のシャネルやグッチをミックスできる。中年になって100%フェアトレードオーガニックコットン製で体のどこも締め付けない服を着るのも、制作数が限られたメイドインイングランドの手縫いのジャケットを羽織るのも、人それぞれのお好みだ。 

それほど選択肢が豊富で選択が自由であっても、夏、暑いからと言って下着でオフィスに入ってくる女性はいないし、外向きの鋭利な鋲の付いたコートで満員電車に乗る人はいないはず。しかし、それが破られるとき、感覚崩壊のストーリーが増える。

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冬の夜。帰宅ラッシュ電車内。マスクを2重にしていても突き刺すような強烈なマリンノートに思わず辺りを見回す。これからサーフィンに行きそうな若い男の姿でも目に留まれば、匂いがきつ過ぎることは置いていても、ただそれだけのことだったと思う。しかし、周囲はオフィスを出た上着を着たサラリーマンの姿ばかりでカジュアルな姿はなかった。車内で厚着の人々が圧縮され、生気のない顔が映る車窓。量販ドラッグストアで手に入る安い合成香料の揮発。ホラー映画よりも質の悪いホラーの場面が、もしも今のこの国の日常なのだとしたら。

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歯科医院で古くはオイゲノールに代表されるは歯科特有の消毒薬の匂いがする。デンタルドリルの音と同様、その匂いが待合室の患者の治療への不安を煽るとして匂いの強い薬剤は減る傾向にある。或る初めて行った歯科医院の待合室。加湿器に女性用のフレグランスが加えられたのか、猛烈な女の匂いが、しかも衛生的ではない女の匂いが待合室に充満していた。(そもそも加湿器に加える用途でないものは一切、加湿器に加えない方がいい。)一体その意図が全く不可解なのだが、何でもいいから香らせておけばいいという何かが欠落した感覚にはオイゲノールで想起される恐怖感どころではない不安が生じた。案の定、これまでに経験したことのない、許容を越えた的外れの雑な治療で、治療の続きの次回の予約日を決めず逃げ帰り、別の歯科を探した。嗅覚は本来の目的の通り、危険察知に使わねばならない。待合室で危険を感じたならば治療前に逃げるべきで、社会的協調性など優先して呼ばれて治療台に向かってはいけなかったのだ。

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その香りを漢字で例えるなら「誘」。人を惹きつけてやまない熟れた花の色気ではなく、何かを装ってでも引きずり込もうとするアリジゴクのような「誘」の香り。書割りとハリボテで出来た幸福ランドの看板を大きく前面に掲げて女性が入ってくるのは役員室。ホラーショウは続く。

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食品を扱う店、特にその場で料理を提供する店や、パン屋のような食品の香りが重要な商材である場で、店員が纏うフレグランスはもちろん、衣類の香り付き柔軟剤の匂いが何を引き起こしているか、経営者の方にはご想像頂きたい。

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2019年、これから感覚を重視する文化とそうでない文化に2分されていくようだ。何が快、不快であるかを自らに常に問うことをする文化と、それをしない文化。世論調査で最も多い「わからない」という回答は、自分の出す解に責任を負いつつ判断を下す、ということをしない今の国民性をはっきりと示している。思慮のある曖昧さではなく、感覚の弱体化がそうさせている。心地よいかどうかを自ら判断する感覚を持たない集団は、ある人達にはとても都合がよい。気を付けた方がいい。嗅覚は危険が近づくことを察知するための感覚でもある。

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とても近くに肌が寄る瞬間、ふとした動きの瞬間、その時だけ立ち上る上質な香りは、それを捉えた相手に、おそらくとてつもなくその人を印象付ける。肌の上に直接纏う香りは上質なもを、という感覚は、人目に見えない下着こそ上質なものを纏う感覚と等しい。柔軟剤の芳香は常時その人の周りに漂い、その人を「そのように」見せる。それは量販ドラッグストアの洗剤棚を想起させる。

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結局、鍛えられた人の感覚によってのみ、香りであれ服であれセンスよく纏えるのだろう。何もかも手近になってしまった今、落とし穴は多い。香り選びに関しては時に、蘊蓄や、知識や経験よりも、鍛えられら感覚だけが頼りになると思う。

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