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XVIII. Iris_保留剤

アイリス(ニオイアヤメ, Iris pallida)の根を6年以上かけ乾燥熟成させる。ゆっくりとした酸化反応により香気成分主体(alpha/beta)-イロン(irones; C14H22O MW206)が生成する。香料分子のなかでも比較的分子量が大きく”重い”=揮発が比較的遅い。

原料となる白く乾燥した根の塊はその見た目の地味さからも、到底香料原料になりそうもない物体で、褐色の点々も不気味。水木しげる大先生著の図鑑で見た妖怪百目を思い出す。

それ自体は匂いもほとんどない。よくぞこの根から香料を採取することに思い至ったものだと、古の賢人に恐れ入る。

根はともかく、その花は、春の一時、丈高く麗しく咲く。湿度が上がっていく季節の直前、花に鼻を寄せれば一瞬の清涼剤になる。

バイオレットからも同じ成分が得られる。バイオレットは根ではなく、葉を用いる。新春の頃に咲くニオイスミレは花からも比較的強く温かな香りがする。

両者とも、花から放たれる香気、イロンはその前駆体とともに葉や根に蓄えられている。葉や根から採取されながらもフローラルに加えることができる。花を抑えつけない重宝な香料原料だ。

イロンを含むイリス香料は、濃い状態で嗅ぐと鼻の奥にへばりつくようで咽そうになる。パウダリーと評される性質に当たる。鼻腔中の挙動が重く、長く(とはいえ一瞬のことだが)鼻腔にとどまる。その真逆は、高揮発性炭化水素、ガソリン。もはや匂いという範囲を越え、鼻から突き抜け目を刺すようで苦しい。

受容細胞との接触による分子構造認識のみならず、分子の物理挙動が匂いの認識に大きく影響することを思い知る。ボウマン液ー細胞表面ー気相、それら相界面挙動、支配要因を考えてみるだけでも、嗅覚の分子認識の複雑さに頭がビジー状態になり思考停止。

単品のイリス香料は、どうしたらよいものか、扱いが見当もつかない。何とも言えない感じ、としか言いようのない香料原料のひとつ。

しかし、ひとたびフローラル調香にイリスを加えた時のその活躍、効果のすばらしさには驚き、感動すら覚える。

ローズ、オスマンタス、イランイラン、ジャスミンサンバック、カーネーション、フランジュパニ。ふわふわポンポン、勝手気ままに揮発し、薄ら弱く漂うフローラルだけで構成される調香。一つ一つは希少で美しい原料が、混合調製すると、まるでふざけている子供の集団のようで、収拾が付かない。挙句、あれだけ騒いでおきながら、馬鹿げているとしか思えない残香の無さ。皆勝手に飛び去った。

そこにイリスを少々加える。イリス自体の匂いが立つわけでは決してない。しかし、他の花の揮発が劇的に変わる。一つ一つの花の香料成分が行儀よく静かに立ち上っていく。終わりがいつまでも美しい。他のどのラストノートの香料よりも見事なラスティング効果。

これこそ調香の妙。分析化学はこれを追うことができない。揮発促進(ブースター)効果、持続(ラスティング)効果。分子の気分次第。それぞれに性格や特徴が異なる分子構造をリスペクトしてやまない。

嗅覚を通じた脳神経へのパルスもこの刹那の分子のダンスによるものだと信じている。





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