日本橋

東京残香_VI.人形町

Tonka bean organic:香料原料


その街に固有であって、他の街にはない空気。その独特の匂いが失われようとしている。止まらない均質化は複雑な人の感覚を無いものとする。奥行きを失った東京。コストという尺度で繰り広げられる、貧しくもない、豊かでもない、無味無臭の物欲文化は不可逆的に進む。「東京残香」は消えていく東京の街の香り描き残す試み。貴方の街の記憶は、どんな香りがしますか?
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高速道路の高架が落とした水面の影と、ビルに反射した西日。不透明な水と小さなボート。いつも変わらず流れ続ける車の音。同じようなビルが、一軒二軒三軒。道、一軒二軒、と、..、そして郵便局。機械の吐き出す受付番号票を手に取り、空虚な目をして順番を待つ人々。その姿を黄色く照らす蛍光灯。急ぐわけでも、丁寧なわけでもない窓口でのやり取り。振込用紙に記入するボールペンは手に痛く、字が掠れた。取引先への振込手続きを済ませて重たいドアを押し開けると空っ風は頬に痛い。会社に帰る足には無意識に力がこもる。思わずマフラーに首をうずめた。ようやく3月に入り、陽射しに力が感じられるようになったものの、朝晩はまだ冷える。厚いコートを着る季節ではないからと、薄着で出勤してしまうと、こんな日の日暮れには後悔する。ビルに移る自分の姿を横目で捉える。買ったばかりのヒールは足に合わない。それでも、今夜は彼に会える日。この姿を見てもらう。セリーヌのラベンダー色のシャツワンピース。プリーツが美しい。髪は艶が宿る。昨晩は念入りにブローして、今日は朝から手洗いの鏡の前に立つ度ブラッシングした。あと2時間。会社に戻って、そうして、陽が暮れたら、彼に会える。

小網神社の行燈に灯りが燈る。いつもここで待ち合わせ。とはいえ、まだ3回目のお食事デート。

今年の1月、凍えるような灰色の日。雪は朝から積もる勢いで降った。傘を握ったまま足を滑らせた私を、派手な転倒から救った彼の腕を今でも覚えている。東京の雪は白い靴に黒い染みを作る。初めて会った彼の黒い瞳。黒い前髪。白い雪がそこに落ちた。

また会えるかもしれない、あの日、転び損なった時の出会いは突然すぎて、お礼も言えなかったことを悔いて、とか何とか、そういうありうる理由を自分に言い訳して、私は私を救ってくれたその男性にもう一度会いたくて、毎日その時間、その同じ道を通った。遠回りなのに。悴む手先。何やっているだろう、私。冷たい日本橋の水路。

「うそっ」

あれだけ、もう一度会える機会を待ち侘びていながら、本当にその彼が正面から歩いてきたのを見て、私は思わず歩道から引っ込んだ。小網神社の鳥居の陰。過ぎていく彼の背中。間違いない、あの人だ。言わなきゃ、行かなきゃ、お礼を、そう、お礼を言えばいいのよ、あの時はどうもありがとうございました、って。

小走りで彼の背に近づき声をかけた。彼は初め怪訝そうな顔をしていた。そしてそれはすぐに綻んだ。ああ、あの時の。「先日は、本当にありがとうございました。おかげさまで怪我もな...」と、後ろから近付いてきたバイクから私を守るように、彼は自分が車道側に回ろうとそっと位置を変えた。その一瞬、もう私は恋に落ちてしまったのだ。

「あの、あの、また会ってもらえないでしょうか」

自分でも顔が熱くなるの感じてもう恥ずかしくて恥ずかしくて、耳も何を聞いたのか定かでなかったけど、次の日の夜、この小網神社の前で会ってご飯にでも、ということになった。初めてのデートのその日、会社では日中私は完全に放心状態だったようだ。ひとめぼれ、なんてことがこの世には確かにあるって、やっとわかった。そう歌ったあの歌のあの歌詞を、今初めて理解した。

小網神社で待ち合わせて、そうして日本橋の小さな木のカウンターのある素敵なお店で二人でお酒と盛り付けも美しいお料理を頂く。そんなデートは夢の様だった。そして彼は通りでタクシーを止めて、私をその中に押し込んで、ドアを閉める前にさようならを言った。うれしいような、悲しいような。刺身の妻の紫蘇の実を箸先で奇麗に外していく彼の手先を思い出していた。タクシーは首都高に入る。彼はどうやって帰るのだろう。家は何処だろう。肝心な事、何も聞いてない。彼はそういうことを何も言わなかった。

今年の桜の開花は昨年より4日遅いって、ラジオで言っていた。こんなに冷える夜では、桜は咲けない。彼を待つ神社の向かいの小さな柳。そして桜。蕾を付けてはいても、まだしっかり固く、そう簡単に開いてくれそうもない。私が神社に着くと、そのほんのすぐ後に、彼は現れた。毎回。まるでどこかに隠れて私を待っていてくれたのかと思うほど、私が到着したその時ぴったりにやってくる。彼はスマホを持たないらしいから、連絡手段がないのだけれど、必ず待ち合わせには来るから、という彼は確かに約束を違えたりしない。黒い髪の毛、滑らかな肌。そんな間違いのない彼の様子に、乱れや緊張や、焦りなんかは全くない。少し悔しくもあり、ほら、今日の私はきれいでしょう、と言いたいのは呑み込んでおく。

柳が焼杉の塀の内側に揺れている。料亭のようなお店。彼はどうしてこんなに素敵なお店ばかりに連れてきてくれるのだろう。看板もないこのお店は一見さんは入れそうにない。きれいに髪を纏めた着物の姿のお店の方は、愛想よく彼と私を店内に案内してくれる。和服に合う髪に留めたヒスイ飾りの簪に目を奪われた。こんなに素敵な女性にどうやったらなれるのだろう。彼はいつもこういう大人の女の人と接しているのかな。せっかくの素敵なハイヒールはその大きな玄関で私の足から離れてしまった。畳の個室。緋毛氈にテーブルと椅子。床の大きな壷に生けられた満開の桜に思わず声が出た。

「今日はこれを見せたかったんだ。大島桜。」

こんなことを言われたら、もうただの食事の相伴相手では済まないだろう。

「こちらによくいらっしゃるんですか?素敵なお店ですね。」

「そうだね。時々。」

日本酒がすすむ。そういえば彼は飲んでも全く酔わない。私ばかりいつも酔って、そして何を話したのか、あまり良く覚えていなかった。素敵な雰囲気のお店、夢見心地の会話や食事。そんな中、なんとなく、現実に対面することをなんとなく、私も、彼も避けているみたい。けれど、今日こそはきちんと聞く。彼がどこに住んで、何の仕事をしているのか。毎回そう決意して思いるのだけれども。

「あの、付き合っている人、とか、好きな人とか、いるんですか?」

何故私はこんな大事な質問の答えを、昨晩記憶できなかったの。カーテンを開ける手はカーテンが皺になるほど強く握って悔しがった。この朝陽が昨晩の夢をぶち壊す。彼は何と言ったんだっけ。夢ではない。昨日、ちゃんと彼に会った。そして聞いた。彼女は居ますか?って。そのはずなのに。記憶は質問だけを残して解を消している。

彼は自分のことを全くというほど話さない。けれどいつも話題は豊富で、映画や美術の事、私はいつもそれに惹きつけられる。これは食事、というかデートのはず、だよね、と思うけれど、もしかしたら彼にとってはそうではないのかも。もやもやする。次の約束をまたの金曜日の夜にして、1週間会えない日を過ごす。これほど通信手段が発達していながら、スマホを持たない人とは全く連絡を取り合えないと言う驚愕の事実。

来週また会える。会えるけれど、私はまた美味しいものを頂いて、そうしてひとりでタクシーに乗るの?彼はいったい私をどう思っているの?出会いが唐突だったから、まだ、用心して関係を深くしないでいるだけ?

その週、4月下旬並みという暖かい日が2日続き、とうとう桜の蕾は綻んだ。と、其処も此処も、桜の枝という枝の先に桜の花が開いている。花の色はまだ白に近い。隅田川沿いにはチープな赤い提灯と下品な電飾が並び、来週末頃の出店や喧噪を待っている。今年、彼と桜の下を歩けるのだろうか。恋人のように。

待ちに待った金曜日の夕方、小網神社の灯篭に灯りが燈る。私は浅黄色と菜の花色のグラデーションのシルクシフォンのスカーフを首に巻いている。たわわに花開いた桜。その重みで撓った枝先は顔の前にあった。少し背伸びをしてその香りを吸い込んだ。桜餅や桜茶の桜フレーバーとは違う、優しい花の香り。そう、桜の薫りって、もっぱら葉っぱのほうなのよね。今では年中味わうこともできてしまう桜フレーバー。塩漬けの桜の葉。けれど、この繊細な桜の花の薫りは今だけのもの。もう一度深く吸い込んだ時、彼がそこに立っていた。

格子木が障子を透かしている。坪庭のある料亭。高層商業ビルが増えたこの街に、彼が連れてきてくれるこんなに風情のある料理屋さんがいくつもあることが不思議だったし、彼はそのうちの何処の店に行っても愛想よく迎え入れられている。しかもお支払いをしているところを私は一度も見ていない。付けでこんなところに通えるのだろうか。彼が纏っている細いブルーのストライプのシャツは、とても似合っていて、けれど堅いオフィスで働くファッションには見えない。一体どんな仕事をしているのかな。アート系?いや、今はやりのIT金融系か。毎日、どんな生活や仕事をしているのだろう。今日こそは必ず、聞く。タクシーに乗る前に。

「え、僕が住んでいるところ?この近くだよ。」

今晩、お酒を控えたので、私は彼の一言一言、記憶するため意識を集中させていた。お猪口に一杯だけ頂いた日本酒は気が遠くなるほど美味しかったのだけれど、それ以上は我慢した。

「近く、ってこの辺?こんなにオフィスやお店ばかりのところに住んでいるの?」

「そうだよ。それにこの辺は何も商業施設だけがあるわけではないよ。」

「そうなのね。素敵ね、こんな東京の真ん中に住んでいるなんて。」

「そうだね。」

「ねえ、今度は何時会える?」

「そうだね。」そう言って彼は少し悩んでいるような顔をした。

「桜が咲いていると思うの。この後、少し川沿いを歩きませんか。」

彼は黙って頷いた。屋台こそ出てはいないが、白く清らかな桜を、延々と電飾の赤い提灯が照らしている。協賛企業や店舗の名前が書かれた行燈もある。川の向こう岸は暗く、柳の影が揺れている。真っ黒な水面に橙色の明かりの断片が揺れる。

「初めて会った時から、とても親切にしてくださって、こんなに毎週美味しいお食事もご馳走して下さって、本当にありがとうございます。けれど、私はその理由を、考えてしまうんですけれど。」

提灯の列が途切れ、首都高の下、川面は闇。まだ若木の柳と桜が代わる代わる植えられている道。

「それに、お店はいつもどちらも素敵で、どうしても、あなたが何をしている人なのか、どんな方なのか、もっともっと知りたくなってしまうの。」

彼は何も言わなかった。街灯がまばらになった道では彼の顔も見えない。けれど桜の花の香りが強く香っていた。ふと気づくと、小網神社の前に辿り着いた。道も川も真っ直ぐではないこの辺りは、気付いた時に方向感覚を失っていることがある。

「君が望んだことだよ、全て。」

「え?」

「奇麗だね。多分今夜が一番、ここは奇麗だよ。」

神社の行燈だけが照らす桜。さっきよりも開花が進んでいるように見える。

「明日になれば、来週になれば、少しづつ幹に含まれている蘇芳色が花に流れて、花弁から桜の花は染まっていく。そして受粉が終われば一枚一枚花びらがばらばらになって散っていく。今が一番、美しい。葉桜のコントラストも好きだよ。けれど、この純白の桜は一瞬だから。」

彼のゆっくりとした声に聞きほれていた。

「君の夢を叶えたかった。」

「私の夢?」

「君がここで願ったこと。」

「それは僕の夢でもあった。叶えられたかな。」

「そう思う。だって、私は今とても幸福な気持ちだから。」

本当に夢の様だった。それくらい幸せな夜だった。タクシーに乗る前に、いつもしていた次の約束を結ばなかったことに気が付いた。けれど、私の心は満たされて、もう溢れるほど一杯に満たされて、彼が何者で、私のことをどう思っていて、これから二人がどうなるのか、そんなこと、そんな不安や疑いや、心配なんか、微塵もなかった。そんな奇跡のような夜。

たとえ、現実離れして、話せば話すほど、怪談話みたい、と言われてしまうのだけれど。それは叶えられた夢。

後に、日中、彼と行ったはずの幾つかの料理屋を探すにも、そのブロックにはコンクリートとガラスのビルしかない。あの風情のある料亭の坪庭は、どこにも見当たらない。辿り着くのは必ず大通りの信号。川よりも向こう側に渡るのが難しく思える昭和通り。どうしてなのだろう。彼に会う約束は、おうない。少し寂しいけれど。不思議なのだけれど、悲しくは無かった。喪失感が感じられない。あんな素敵な夢の夜、私は贅沢者だ。

ゴールデンウィークも迫る。蒸し暑ささえ感じている昼の小網神社。散った桜の萼が地面に積もっている。あの折るを最後に、彼と会うことはなくなってしまった。艶やかな緑が零れる枝。境内の裏、陰になった社屋の軒下に割れた皿が置いてある。古い陶器。それは置いてある。もう一つ、茶碗。それには水が半分ほど入っている。そこに風化して形もよく分からないけれど、コンクリートブロック程度の大きさの動物、猫が彫られた小さな石像。土に接している部分は苔むしている。枯れかけた供え物の花。

腰の曲がった老女がハナダイコンとハナニラを、敷地の裏に群生しているものを手折ったものだろう、その花入れに入れ替えようとしている。

「あの、これは、この石像はなんなんですか。ここは神社ですよね。」

「ああ、そうです。猫の供養です。神社なのにお墓みたいでおかしいわよね。お地蔵さん、というわけでもないのだけれど。」

老女はその石像のある塚は、猫を祭っていると言った。この地で、古くから、そう100年前よりももっと昔から、沢山の男と女の色恋沙汰を間近で見てきたの小さな獣。火事があった。大地震があった。戦争があった。どんな惨禍があろうともこの街は立ち上がって生きてきた。川があった。食べ物があった。人がいた。同じように、ここに何代も命を繋ぎ生きる獣がいた。

この辺りが花街であったころ、料亭から料亭へ、出汁を取った後の魚の粗や、残菜をたらふく貰って回り、店の人や芸者に大層可愛がられた黒い猫。全てを見ていた。想い叶わず、引き裂かれた男と女。いくらでもいた。涙を流す女の手が、黒猫の頭を撫でる。猫は、女が喜ぶように、再び笑ってくれるようにそう願った。女の幸せを願った。

老女の後ろ姿に白髪を飾るヒスイの髪飾りを見た。

何かと何かの夢が奇跡のように、時を越えて結ばれる奇。一瞬だけのソメイヨシノの花の下、いつかの時代のいつか、叶えられられなかった夢は、叶えられる。

その香りはもうここにはない。けれど私はあの桜の花の香りを、また感じてみたい。


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