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Short story_水鏡

水鏡  MARIAGES FRÈRES flavor tea_Lotus


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イメージを想起させる香りがある。香りを想起させる物語がある。
感覚的実体をもたない、個人のイメージに、香りという実体を与える試み。
あなたはこの物語からどんな香りを感じますか?

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女は怖い。

いまやこの寺の名物、池に咲く満開の蓮の花の周りで、端末のカメラをかざしながら恥も忘れてヒステリックに騒いでいた昼間の女たちのことを言っているのではない。

時に想像も及ばない、核融合にも匹敵するであろう莫大なエネルギーを生み、放つことができること。

それが女の恐ろしさだ。
それは制御できない力。

蓮が咲き誇る池からは少し離れて、境内には古代蓮が植えられた小さな水鉢がある。
今夜、その蕾はひっそりとその首をもたげて、さらに膨みを増していた。
漆黒の水面が水鏡となり、夜の星々を映す。

力を放つ女は宇宙の闇に燃える、恒星のようだ。

風が吹き、水面に波紋が生じる。
水鏡の端に映っていた月光が揺れ、その形は定まらない。

次第に、水鏡が光を放つ。
そこに映りこんだのは1995年の東京の姿。
世の中は姦しい。

愛のために、時として躊躇なく生命エネルギーを燃やすのが女というものなのだろう。
愛をその起点としていながら、しかし、そのエネルギーが愛する相手には向かわない時、無限に膨らむ力。
女の中で行き場の無いエネルギーは爆発し、女自身を激しく、眩しく、輝かせている。
眩い光が、漆黒の水鏡に浮かんでは消える。
自分自身を燃やし尽くし、尽きようとする直前の爆発を待つ。

恒星そのものだ。
それが女というものだろう。

エネルギーを放っている人間は、それを見る人々を魅了する。
そして、大衆の意識を集め、社会を動かすこともできる。
人はそれをまるで奇跡だ、などと言う。
しかし、生命のエネルギーを燃やしたならば、その結果は常に想像を超えるものだ。

ある男は、そのことに気が付いた。
女が、その愛のエネルギーを以て、自分の野望を叶えてくれることに賭けた。

女がその男を愛した。
女は愛を歌い続けた。
はじめは、男にだけ聞かせるために。
しかし、注げども、注げども、自分からの愛情が男の内には満ちていかない。
女はもっと、もっとと、多くの愛を注ぎ続け、
いつかはそれが男を満たすだろうと信じていた。
歌い続けた。
男が彼女が歌うことを望んだから。
いつしか、女の前には男ではなく大衆があった。カメラレンズがあった。
女は次第に、際限なく膨らむ愛に任せて、自分の生命エネルギーを惜しげもなく燃やすように歌った
男の望む歌を唄った。
男の作った歌を唄った。
自分の愛情が未だ男を満たさないのならば、もっと、もっと、と。
もはや歌唱力などとは関係無く、生命エネルギーが響かせる歌声は、あらゆる人の心を震わせた。人はその輝きに魅了された。
大衆は彼女だけを見ていた。
彼女から目が離せなくなった。

それこそは、男が望んでいたこと。
男は女の唄声が社会を変えていくのを、見ていた。
男の手には成功が残った。
女は眩しく輝き、残光を置いて、短く燃え尽きた。

女は歌姫と呼ばれた。


1995年からの数年間、その一部始終を傍で見ていた別の男がいた。
自らが燃え尽きるのと引き換えに、女が爆発的なエネルギーに包まれ、輝いたのを見た。
その光が大衆の目を集めた。
奇跡としか思えないような出来事が「奇跡ではなく予測可能」なセオリーであることを
証明してみたいという欲に男は抗わなかった。
自分にも、女の愛のエネルギーが自在に使えることを、試したかった。

20世紀も最期となった頃。
その男は、自分に愛情深い女を市中に見つけ、人の前で歌を唄わせた。
歌う事、それこそが自分の求める愛なのだと、信じ込ませた。
本来、男に向けられていたはずの、母性にも似た純粋な女の愛は、ただただ歌い続ける事、そしてそれを商品として市場に流すことにすり替えられていた。

いつしか、爆発して散ったその女の生命エネルギーが、微かな光と熱になって星間物質とともに宇宙に漂う。

ここにも歌姫がまたひとり。


「またこの水鉢を覗きに来ていたのか。」
後ろに僧衣の雲水が立っていた。
月明かりとその影が境内を縁取る夜。
明日の早朝には、この膨らんだ古代蓮の蕾も綻ぶことだろう。
「いつまで人の世を覗いているのだ。まだ人間への未練が残るのか。」

男への愛は、女の歌声となり、世の人々を魅了した。
男が去り、女が燃え尽きても、その歌声の残響を人々は覚えている。

愛するもののため、愛するものに少しでも近づきたく、男の望むこと実現させてやろうと、到底出来そうもない描かれた夢も
男が望むなら、実現させてみせましょうと、
本来は子孫に注がれるはずの生命の力を、男への愛に燃やす女たち。

奇跡と呼ばれる事、それは恐ろしいことに確かに起こる。
生命のエネルギーを燃やすことは、宇宙の摂理に触れること。

___

その時、研究室の誰よりも、多くの恒星の観測データを集めていた。
もともと、漆黒の宇宙に輝く恒星の成り立ちや運命に魅せられたから始めた研究は、
何時の間にか、研究活動が私の行き場のないエネルギーの捌け口になっていた。

同僚の誰よりも多くの論文を書いた。
そうすれば、ずっと教授の近くにいられる。
一緒に仕事をし続けることが出来る。
いつの間にか、ただ、それだけのために成果を出し続けていた。
恒星の研究は、目的ではなく手段へと変わっていた。
ただの一言、「愛しています」と言えずに、その代わりに、何年も教授の下に残り助手を務めていた。
一日に15時間も研究室にいて、睡眠時間が4時間の日々が何年も続いた。
誰よりも成果を出し、その発表は学会賞を何度も受賞していた
他の誰にもできない観測や計算ができる、私自身に対する外からの評価は高かった。
他の大学からの引き抜きの話を全て断ったのは、ただ教授の近くにいるためだ。
教授に褒められたかった。
他からのどんな評価も私を満足はさせなかった。

教授のアメリカの大学への異動が決まる。
一緒に行くのは自分以外にないと信じていた。
そのための業績は十分なはずだった。

しかし。
秘書は、新しく着任した準教授の男性と技術員のふたりだけをアメリカに伴い、教授はその他のスタッフとは年度末の契約更新をしない、と告げた。

信じることが出来ず、直接教授に問いただした。
そしてそれが事実だと教授の口から聞かされる。

血の気が引き、強い耳鳴りに妨げられて教授のその後の言葉は耳に入らなかった。

視界がモノクロームになっていく。
何も考えられない。
しかし、身体だけルーチンプログラムのままに動き続ける。

その日の観測データを回収するために無意識にいつも通る研究棟の外階段を上った。

雨上がりの濡れた鉄の階段。
段の縁で滑った足は、階段を踏み外す。
手には回収したデータを保存するためのポータブルハードディスクが握られていた。
咄嗟にハードディスクを庇い、手すりを掴むことが出来なかった。
大切なデータ。
私だけが観測してきた宇宙の真実。
教授はこれを見ればきっと喜ぶだろう。

足元が浮き、身体が宙に投げ出される。
空と地面が逆さまになり、最後に私が見たのは、空を飛んでいた大きな黒い鳥の腹だった。

___
「何度、覗いて見ても同じ事。もう過ぎた世のこと。その水鏡に映るのは、もはや幻影でしかないぞ。」
雲水を背に、黒い鳥は首を傾げたまま、其処に映る自分の黒い影が揺れるのを見つめていた。


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