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東京残香_赤坂 檜町


ローズドメ Rose de Mai  香料原料 ミドルノート

失われていく街の香りを、物語に記す試み

あなたはこの街にどんな香りを感じますか。

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緑は力を得て、アスファルトの上を揺れる陰影が濃い。

今日は空が低い。
どれほどコンクリートやアスファルトで覆おうとも、
この土地が温帯アジアに属していることを思い出させる湿度を含む風。

例によって、この辺りの風景も東京に典型的な進化を遂げてきた。
丘の上には空へと伸びる高層建築。
その足下を、周辺を起伏の激しい高低差のある一画が囲む。
ここも台地と浸食谷で構成された場所のひとつ。

幹線道路を脇道に入る。
ブティックやオフィス、カフェが並ぶその裏の道。行き止まりのその先へは誰も足を向けない。その突当たりに。
長い間、剪定を怠った庭木は茂り、家の入口には人を寄せ付けない闇がある。
実際、小さな階段を上がり玄関に辿り着くまでには、朽ちた枝や蜘蛛の巣を避けられず、立ち入るにはそれなりの心構えが要る。
それでも、朝は小鳥の囀りが晴天を告げ、季節によってさまざまな植物の香りが包むその家の状態を、私は大切にしていた。

その和洋折衷の作りの家には、縁側が囲む小さな中庭がある。
かつてのこの家の主が、丹精して育てたのであろう薔薇が強く香る花をつけ、蘇芳色の花びらが地面の上に散り放題になっている。

私は、このような異空間を見付けては、転々と移り住んでいる。
栴檀の木には花が付き、辺り一帯に香りを漂わせている。
しかし、周辺を行く人は花を見上げることなく通り過ぎる。
奥の塀は羽衣ジャスミンが薄桃色の滝を作っている。
私はこの香りの結界の中に暮らす。
誰にも気付かれずに。

台地と谷。
行き来する途中に、異なる2種類の空気が接する、密度の境界がある。
香りはその境界を伝って流れる。
その流れを嗅覚で追いながら、街を探り歩く。

坂を登り切った頂上には芝生が広がり、手入れされた季節の植栽が歩道脇に続いている。
コデマリやユキヤナギが揺れるその先、ベンチには立ち入り禁止のチェーン。
マリーゴールドはマリーゴールドとして、マーガレットはマーガレットとして、そのイメージからの逸脱を許さない花壇。

外苑東通りではシーズンごとのコレクションルックに身を包んだ、隙のない化粧をした女性たち。
彼女たちの足はいつも急いでいる。
ロゴが無くとも、上質な素材でエクスクルーシブメゾンのものであるとすぐにわかるシックなバッグ。
何気ないシャツにジャケット姿の男は、居住者専用の地下駐車場に入って行く。
光に包まれた外国車のショールームのような駐車場。
彼等はいつも急いでいる。仕事に、パーソナルトレーニングジムに、ネイルサロン、レストランの予約に、追われている。
流れてきた梔子の香りを追ううちに、檜町公園に来た。
羽虫の多い、池の周りで不透明な水面を眺めていた。
通り過ぎる外国人の子供たちの声。

その日は、客を迎えるために、滅多に足を向けない赤坂見付の周辺に向かう。
空気が重い。
駅周辺の雑踏。
ここでは、香りは立ちのぼることなく、地表の直ぐ上を漂い溜まる。

人間たちは絵の具の色を全て混ぜてしまったような色を一様に皆纏っている。

舗装道路と同化する保護色だ。

電飾の華やかさが虚しい。
ここでは空は遠のき、そして狭い。
まるでコンクリートの井戸の底にいるように感じる。
水が腐った匂いの中を抜ける。

目に入るものは、何処の駅前とも区別のつかない雑多な直線と四角、文字、色と光の洪水を透かして、かつてここが溜池だった頃の風景が透けて見える。
舗装される前の戦前の道が浮かび上がったその時、
向こうから男性がひとり、こちらへと近づいてくる。
「やあ、待たせたね。」
大きな目だ。
変わらない。
「ああ、久しぶりだね。元気でいたかい。」
「わざわざ迎えに来てもらってすまないね。」
「今度のところにも道案内が必要だよ。この辺りは空気が複雑なんだ。」

通りを逸れて、小さな階段を上がっていく。
古い団地の敷地に沿って崖を固めたコンクリート。
小さな土がむき出しになった場所に初夏の草花が茂る。

そこから風に舞っていったタンポポの綿毛に歓声を上げて駆け寄っていくちいさな子供。
その後ろから鋭い声がした。
「駄目よ、触っちゃダメ、汚いんだから。」
草へと伸ばしたその小さな手を、突然強く引かれて泣き出す子供。
「お外にあるものは、何でも触ったらダメなの。怖い病気になるばい菌が付いてるかもしれないでしょう。」

狭い道、その親子ふたりを先に通し、

私と彼はその空き地に立つ。
彼はジャケットのポケットから何かを摘まみ出して、パラパラとその地に撒いた。
「何を蒔いたんだい。」
「月見草と華鬘草、それから家のスミレも混じっているかもしれない。大丈夫。君への分は残してあるから。」
さきほどの小さな子供は向こうから振り返って、私たちを見ている。その目を丸くし、こちらを指を指して母親に何か言っているが、母親はこちらを見ることなく子供を連れて通りを去って行った。

「さあ、もう少し上っていくよ。」
アスファルトの急坂を上り切ると緑が増えていく。邸宅の植栽だ。
「初夏の香りがするよ。」
「ああ。この香りに沿って行けばもうすぐだよ。」
突然強い風に吹かれる。彼は頭の上の帽子を手で押さえた。
私は一瞬バランスを崩したがすぐに体勢を整えた。
「おいおい、大丈夫か。」
「大丈夫さ。このビルのこちら側は、よく風が暴れるんだ。そして、ビルの向こうはすっかり無風になってしまったよ。」

ラベンダー色の薄いガウンに風を孕ませて、ジーンズを履いたショートカットの女性がすれ違っていった。
そして、私たちの後ろで足を止めて、周りを見回している。目を凝らして、そして、鼻を効かせて、空気を探っている。
どこかで薫っている、見えない花を探している。
しかしそれは、永遠に見つかりはしないだろう。

その香りは、花畑からではなく、彼から薫っているのだから。

「ほら、此処だよ。」
私は誇らしげに家の前に立った。
「ほう、また素敵なところだね。」
彼は、スラックスの脛に触れて繊維に絡みつく草の種を払いながら玄関までたどり着いた。
「君ならさ、きっとここが気に入るんじゃないかなってさ。」
彼は頷き、「よくここを見付けたね。」
そう言って三和土を上がると、早速、中庭に下りて薔薇の花に顔を近づけている。
「蜂に気を付けて。」
「どこかに蜂の巣でもあるのか。」
「あるかもね。」


私は今日のためにとっておきの茶葉を使って白茶を用意した。皇居の森の中の茶畑から新芽を失敬してきたのだ。
施肥されていない自生種に近い野生の茶葉だ。
何往復もして、丁寧に新芽だけ15枚揃え、2週間、風の中で自然発酵させた。
この茶は、どこか茉莉花のような香りがする甘露だ。
彼は、土産にと、彼の家で採れた桑の実やヤマモモ、ヒマワリや松の種を花の種と合わせて沢山持参してくれたのでそれは素敵なお茶請けになった。

耳を澄ます。
空襲警報のサイレン、足を出した若い女性たちの夜の空騒ぎ、2重駐車で並んだタクシーのクラクションが聞こえるようだ。
戦争、米軍による接収、復興、バブル、それから地上げと均一化。
この土地は幾度も凌辱され、その記憶を乱暴に上書きされてきた。
それから、この土地も他の東京の土地と同じように虚無に覆われた。
空気が薄い。
この土地で眠る者の声がする。

何処からか、猫が一匹現れて、縁側に上がってくる。
私は、せっかくなので猫にヒマワリの種を勧めてみたが、猫はそれを丁重に断った。
「人間が来たから、またここを壊すための算段をしに来たかと思ったんだが。」
猫がそう話し始めた。
「どうやら、違うようだね。」
「彼はね、僕らと一緒さ。」
私は彼を猫に紹介した。
「珍しいことだね。だって、彼は生きているだろう。それに人間だ。」
「初めまして。私は調香師をしています。」
彼は猫に頭を下げた。
「だから、彼にはこの結界が見えているよ。」
鳥は男の肩に止まって、どこか、自慢げにそう猫に言った。


取り壊しの看板とともに鉄製のフェンスが巡らされたその廃屋の前で、地区会長がファッションプレスの入ったビルのオーナーと立ち話をしている。
「ここはいい噂がなかったから、ようやく取り壊しが決まってよかったですよ。」
「ちょっとこの一角だけ鬱蒼としていて不用心でしたからね。」
「夜になると、人の声がするとか。」
「え、幽霊?」
「幽霊ならいいんですよ、幽霊なら。本当に人が入って棲みついちゃったりすると面倒でしょう。最近多いんだってよ。空き屋に勝手に棲み付かれちゃうんだって。」
「あ、でも棲みついているといえば、なんかいつもここの家で鳥が鳴いていたようです。姿は見たことないんですけどね。ここ最近は聞こえないなあ。どこか行っちゃったのかな。」

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