僕らはみんな生きている

前文

文章って気負うと力みすぎて、空回ってしまう。

これは話し言葉も同じことなんだろうけど、文章は特にそう感じることが多い。まあ、自分においては…って感じですが。

というわけで、この前置きで何を伝えたいのかというと、過去自分が書いた文章で好きな…というかいい意味で力が抜けてて気に入ってるものがあるので再掲したいなと。

この話もいつか書く機会があるのかもしれないけど、幼い頃身体が弱くて、小児喘息を患ってる子供だったので、毎日では無いにしても苦しい思いをたくさんしてきました。

少し走るだけでも発作は起こるし、季節の変わり目には1〜2週間発作が続くこともあり、長く学校を休むことも珍しくありませんでした。

軽い状態なら学校にも行ってましたが、それでも歩くだけで息が上がる中通学するのは辛かった覚えがあります。そんな思いをしてでも行ったことは、後年色んなことや場面で糧になっているような気がします。

そんな僕が闘病を通して得たものはそれだけではなく、今回ここで読んでいただく事も未だに自分の死生観に影響を与えている、大事なエピソードの一つです。

以下、過去に別のウェブサイトで載せていたものを少し手直しして再掲載させていただきます。


ミュージシャンが奏でた楽曲に思わず涙

先日とある機会を得て足を運んだ、大阪城ホールで催されたFM局主催のイベントライブ。これが音楽好きな自分にとって非常に心揺さぶられる素晴らしいライブだった。


 世界中にはたくさん名曲があるけれど、こんな狭い日本にも名曲と言われる曲はたくさんある。そんな名曲たちを旬なミュージシャン達がスーパーギターデュオ、山弦のアコースティックアレンジに乗せて唄うというなんとも贅沢な企画だ。

 「さとうきび畑」。どこまでも続くさとうきび畑の爽快な風景の下には戦争の悲惨な過去が埋まっている・・・と歌う前にこの曲をこの日唄った宮沢和史は語ったが、実に重いメッセージが含まれている曲だ。日常のなんでもない美しい風景の中にもこのような物語がたくさんあるんだろうな。平和の尊さを改めて感じた。

 「いい日旅立ち」はやっぱりオリジナルの歌詞が好きだな。特に2番の出だしの歌詞は風景がふっと浮かんでくる。♪岬のはずれに少年は魚釣り 青いススキの小道を帰るのか・・・♪歌詞と曲とが本当にマッチしているイイ曲だな。
そのほかにも尾崎豊の「I LOVE YOU」や松田聖子の「赤いスイートピー」、「蘇州夜曲」などさまざまな名曲と言われる曲が演奏されたのだが、とりわけ僕にとって思い入れの強い曲がこの日演奏されていた。
その曲を聴いた途端、昔の事を思い出し、自然と涙が僕の頬を伝った。
 その日Sakuraという関西出身のミュージシャンが児童唱歌や童謡をメドレーで歌っていたのだが、その中の一曲で彼女が取り上げていた曲。

 「手のひらを太陽に」

 曲自体はメジャー進行で非常に明るい曲。
どんな小さな虫にも生命が宿っていて、今こうやってなんとなくここにいる僕達も”生きている”んだよっていう”生命賛歌”だ。
みんなもこの歌は知っているだろうし、実際何度も歌った事があるかもしれない。
 僕はこの歌を他のどんな児童唱歌よりも数多く歌った。いや、”歌わされていた”と当時は思っていた。

 僕は幼少の頃は本当に体の弱い子供だった。その原因は生後数ヶ月で発病したと言う「小児喘息」のせいだ。この病気のおかげで随分僕は苦しめられた。
普段はまわりの人と全く変わりなく生活ができるんだけど、いざ発作が出てしまうと息苦しくなって歩くことさえままならなくなる。そんな発作が短くても数日、長ければ数週間続く。当然体力はどんどん落ちていく。太ろうと思っても太れない。だから余計に体力を消耗するのだ。僕は結構重症な方だったらしくて、施設や養護学校っていう選択肢も迫られた事が実際ある。一番ひどかった頃は一つの学期中に1ヶ月近い日数を休んでしまう事もあった。

 そんな病気と僕は約20年間闘ってきた。

喘息との闘病

 当然、そんな調子だったので病院へはほぼ成人になるまで週一回必ず通い続けた。多い時は2回行ってた事もあった。
小学生の頃は毎週水曜日に小児喘息患者の集まり「あおぞら教室」というのが隣町の市民病院で行われていたのでそれに参加していた。
”喘息体操”なるものをしたり縄跳びやマラソンをしたり、同じ病気をかかえたもの同士で体力増進をはかろうって言うような内容だったと思う。(診察もあったかな?)とにかくこの為に水曜日は必ず学校を早退していたという記憶だけははっきり残っている。

 その中で僕等は「冷水摩擦」ってものをしていて、それをしながら唄っていた曲と言うのが「手のひらを太陽に」だった。

 その時は、とにかくタオルがキンキンに冷えて冷たいし、毎週同じように繰り返されるそのルーティンに「だるいなー」って思ってたかもしれない。でも、そういう病気をかかえた僕等に歌わせる曲としては最高の曲じゃないかなあと今は思う。だれが選曲したのはわからないけど、多分選んだ先生は僕等に命の大切さを気付いて欲しかったんじゃないだろうか?


 「あおぞら教室」には本当にたくさんの喘息患者が集まっていた。下は小学校に上がる前の小さい子供から上は小学校高学年まで。症状も重い子から比較的軽い子まで、実にさまざまだ。
 僕が高校生くらいの時かな。一度だけ同窓会みたいなのをやった事があるだけど、それ以来みんなとは会ってない。みんな、立派に大人になれたのかな?

でも、会いたくてももう会えないという人もいる。

 O君は確か僕よりも1つか2つ上で、僕よりも重症の喘息だった。
「あおぞら教室」ではもちろん病院主催のキャンプやハイキングなどでも仲良くしてもらったし、母親同士も仲良く付き合いをさせてもらってた。
 喘息に罹っている子供は大概痩せてギスギスで見るからに病弱なんだけれど、O君は体型も良くて普段は活発で健康的に見える風貌だった。だけど、発作になると僕よりもずっと重篤でよく入院していた。
 小児喘息は直接は死に至る病ではないと教えられたし、僕もそれを信じて疑わなかった。発作の苦しみはそれはそれは死をも感じる時もある程激しくて辛いものだったけれど恐怖感を抱くことがなかったのはそういった知識が幼い頃から埋め込まれてきたからなのだろう。

突然告げられた身近な人の死

 だけど絶対は無いのだ。直接で無くても死の可能性はあるのだ。
それは或る日僕がいつもと同じ様に学校から帰ってきてお気に入りの「ドラえもん」のレコード聴いている時に母親から告げられた。


 「O君、死んだんやで」


 O君は入院生活を送っている最中で、夜中に発作に見舞われその時に自分の痰を喉に詰まらせて呼吸ができなくなりそのまま逝ってしまったのだという。
 さすがにその時に僕自身がどう感じたかははっきりとは覚えていない。けれど同じ病気と闘っていた仲間の死は幼心にも大きなショックを感じた事だけは覚えている。
 
 自分の身近で最近まで笑ったり、走ったりしていた友達が突然いなくなる。

 まぎれもなく”人の死”を初めて意識した出来事だった。

 「手のひらを太陽に」を共に歌っていたO君の事を思い出すと胸がきゅっと苦しくなる。
僕だって彼のように早くに召されていたかもしれない。
そう考えると彼の分までなんてキレイ事ではなくキチンと生を全うしていかないといけないなと、本当に思う。

 母の元には未だに毎年、彼の母親から年賀状が送られてきている。

 だから決して僕は彼の事を忘れる事はないのだ。

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P.S.

この曲の歌詞をやなせたかし先生が手掛けてた事を今更ながらに知りました。

それを知って、アンパンマンのOPソングにも通ずるところを感じるなとも。

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