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RSGT2024に参加しました(べきと意志決定)

参加して1ヶ月とだいぶ亀ですが、そのとき自分に起きたことと後日考えたことです。
一緒に読書会させてもらってるのりっくさんと先日雑談の中でカフェイン断ちの話から派生して、「〜べき」と意志決定について話をしたのがきっかけで(自分のために)書いとこ、というお気持ちが湧いたので、衝動のままに筆をとりました。

カフェインと仕事

雑談の中で、以前私があるプロジェクトでご一緒させていただいた方の話をしたのですが、その方は見かけるといつもエナジードリンク飲んでいた、それってカフェインすごく取っているよね、もう取らないといけない感じなんだろうね、みたいな話をしました。
その方は受け答えも丁寧だし、作った資料もわかりやすいし、という信頼できる人だったのですが、一方で資料の更新日時は夜中だし、こちらが夜10時ぐらいに(翌朝回答でいいよーのつもりで)うっかりSlackにメッセージ入れておいても、即レスが来るという、ありがたいけどとても心配になる働き方をしている人でした。お昼休み休憩も自社のMTGで昼食を食べ損ねていることもしょっちゅうな様子でした。
もしかして、こういうパフォーマンスをキープするためにエナジードリンク飲んでいるとしたら、ただの元気の前借りだし、長期的な目で見てその方の健康、ライフワークバランスなんかも心配でした。そして本人は「生活を整えたい」と話していました。
なぜ、この方はこんなにずっと「Working」な状態でいるんだろうか、本人の生活整えたい発言からすると、心の底からこの状態を望んでいるわけではないのだろうに(そっちが違う可能性はあるけど)・・・。何が彼女を突き動かしているのでしょうか。

「〜べき」という力

ここからは自分の話です。
私は割と自分の心に正直に意志決定をしていると思ってきました。私のことを知っている人の中にはそんなイメージを持っている人もいるかもしれません。でも実際は「〜べき」で自分の心が発信していることを聞かずに行動に移したりしているものもたくさんあります。それは自身の経験や社会人になって刷り込まれたこと、訓練してきたことの結果であり、全てが悪というわけではないとは思っています。決断、行動に繋げるエネルギーは大切にしたいと思っているものの1つではあります。
昔はもっと「あれ、ちょっと違和感」と思っても、理屈で考えて自分を納得させ、行動してきたことがたくさんありました。周りが醸し出す「〜べき」という空気に屈して後悔した苦い記憶もたくさんあります。また自分が「〜べき」を気軽に使って後輩を追い詰めてしまったこともあります。
EQやNVCをいっちょかみした今となっては「〜べき」ってとんでもない力だなと認識し始めているところです。

RSGTで起きた感情

もう話があちこちに飛びますが、表題のRSGTで起きたことです。コーチズクリニックでコーチのAkiさんとお話しさせていただきました。話題はお仕事上での対人面での話だったのですが、少し話がパーソナルな部分に踏み込みました。終わった後、なんとも一言で表現できない気持ちになりました。ちょっと書き出してみます。

  • (全てではないが)こういう話を他人に打ち明けたということでホッとした安堵の気持ち、一方でまさかこんなところでこんな話をしまった、と驚きの気持ち

  • 過去の苦しかった経験を思い出して、悲しみやうんざりという気持ち

  • 自分が望んでいることを実現するために、何が大事なんだろう、何をしたいんだろう、考えたら何かが見えるのではないかと期待している気持ち

  • 上記について考えたい、掘り下げたいけど、ちょっと勇気が必要そうだ、怖い・不安という気持ち

なんかもうぐっちゃぐちゃです。

その後どうしたか

コーチズクリニックは最終枠だったのもあり、その後のセッションなどの予定はなく、当日は家族の了承も得ていたので、遅くまで誰かと飲んだり話したりできる状況であったのですが、上記のように変な感情になったのもあり、私は飲み会に参加せず帰宅することにしました。こんな状態で行けないよ、ではなく、なんだか家族の顔を見たいな、と思えたからです。

RSGTはその名の通りギャザリングなので、いろんな方とふれあいたいと思って参加しています。現地でもオンラインでも。
私がそう感じるだけかもですが、なんとなく「ギャザるべき」という空気がただよっています。
この日は「ギャザるべき」を自然と振り切って、「帰宅して家族と過ごす」という意志決定をしました。ちょっと未練があったのかDiscordに「オンライン廊下にあとから行きます」という書き込みはしましたが、結局行きませんでした。家族となんて(元気でいれば)いつでも過ごせるんですが、なんだかその日はそれがとても大切なことに思えました。
「〜べき」だけど自分はこうする、という初めての感覚でした。

意志決定するのに少し「〜べき」の要素がある

ふりかえると、これまで意志決定は自分の心100%でできているかというとそうでもなくて、「〜べき」がいくぶん含まれた上でそうしているのだなと認識できました。周囲の空気に屈したというのも自分がそう決定をしたという事実だけで100%自分で決めたのだと思い込もうとしていました。自分の心の声を無視したり、なんでそれをする必要があるのか、周囲が本当に望んでいることは何かを掘り下げなかったり、時間がないからこれしかない、こうするべきという周りの声(だったら人に決定を委ねるなと言いたいですが)で半ば無理やり自分を納得させ(ようとし)てきたことの方が多いように思えます。
RSGTでの「ギャザるべき」は日常交わされる「〜べき」という言葉に比べると、若干強制力が弱いかもしれません。でも自分に取っては大切にしたい経験でした。
もちろん社会人として人に迷惑をかけないべきだとか犯罪をするべきではないとかいろんな「〜べき」はありますが、その範疇内での自分に取って「〜べき」の比率を少し下げた真の意志決定(あんまり納得いってない言葉ですが)をしていきたいと考えたところです。
そう考えると、ああまた面倒な人と思われるかもとか、苦行の時間もあるんだろうなという不安とかうんざりな気持ちが先に来ていることを感じながらも、「これが人生か〜」(言葉重っ)という受容する気持ちも湧いてきています。

余談

ここまで書いて一番最初に書いた彼女の話に戻りますが、彼女の行動もひょっとしたら「〜べき」に突き動かされているのかもしれないなと思ったところです。とても責任感が強い方だったので。もしかしたら自分の心の底からそうしたい!と思っているのかもしれないですし、「〜べき」を実際の行動にうまく使えるエネルギー効率のよい方かもしれないです。
昼夜問わず頑張っている(頑張りすぎている)彼女の人生が幸せであることを願ってやみません。


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