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138億年の時間の中で☆第16話☆「嘆くことができていたかな」

恥ずかしながら最近はよく泣いたり、怒ったりしています。「安定」を表面張力でギリギリ保っているような感じだから、ちょっとした刺激(音楽とか誰かの優しい言葉とか)を受けると、気持ちが溢れてきてしまうことが時々。何とかそれなりに対処しているつもりだけど、知らないところで誰かをイヤな気持ちにさせていそうな気がして何だか申し訳ない気持ちも混ざっています。

思春期かよ、っと自分ツッコミを入れてみると、そうそう、コレって思春期。中年の。いわゆるミドルクライシスってやつじゃん、と心の中のニヤニヤした意地悪な顔をした自分がわざわざ近寄って来ます。

「中年の危機、ださい」と思っていた過去の自分を叱ってやりたいと思うくらい、予想以上にヘビー。

今までの生き方に悩む年ごろ、立ち止まる年ごろ、なんて言葉で説明されれば、その通りなんだけど。

私の場合、「がんばりやで物分かりのいいお母さん」だった自分ががどこかに追いやってきた、「子どもっぽくて怠けもののお母さん」である、もう一人の自分が復活してきた感じ。最近は言葉遣いまで30年前の女子高生みたいになってきちゃって、傍からみれば相当痛々しい自覚はあり。こんなみっともない時期、早く終わらないかなあ、とどこかで他人事のように思えるようになったのは年齢と経験のおかげかも。

立派な夢も目標も持っていたわけではないけれど、それでも子育てと介護同時進行の生活は、予想以上にライフプランの急変更を余儀なくされて、それなりに厳しい出来事。いちいち嘆いていたら前に進めない状態だったし、でも、眼前の課題を見つめて、考えて、取り組んで、反省して(後悔して)を繰り返す毎日の中で、嘆く事すら思いっきりできていなかったなあと思います。

たとえば息子の障がいの診断がくだったころ。電車での送迎生活に介護がオンされて、てんてこ舞いだったころ。思う存分に嘆いていたらこんなに気持ちを拗らせなかったかもしれない。その時、その時の気持ちをちゃんと表出させていたらよかったのかもしれない。

でも、意地を張って「泣いてたまるか。自分から不幸になんてなるもんか。同情されてたまるか。」と突っ張っていないとやってられなかったのも事実。だからコレはコレで、きっと正解。

そして今は。

そんなふうに思えるようになるくらい安心しながら生活出来ていることに感謝しながら、蔑ろにしていた「嘆きたかった私」を大事にしてあげようと思っています。身体の主導権を彼女に時々は譲ってあげて、思いっきり嘆いて、怒っていようと思います。もちろん、生活に支障がでないよう適切な形を模索しながらですけど(既にでてるかもしれないけど)。

泣き疲れて怒り疲れたらきっと、能天気にゲラゲラと笑っている、ちっとも大人じゃない、上品でもない、だけど「最強のおばちゃん」に進化を遂げているはずだと楽しみにしている自分もいるのです。

 

 

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