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138億年の時間の中で☆第39話☆「子を守りたいのなら、まずは親から」               

 多少の後悔と反省を残しながらも18歳になった長男の子育てについては、よくがんばった!エライね、わたし!と高評価を下せるのですが、まだまだ、迷いが生じてしまうのは次男の子育て。
 
 あーちに通いだす前の私は、いろんな出来事と負荷が積み重なり、心身の余裕を喪失。視野狭窄、神経過敏状態になっていました。
 小さな生活音や、他人の言葉遣いなど、とにかく細かいことが気になりだして、ため息もイライラも止まらない。そんな私の負の影響を受けてしまったのは次男でした。
なんて表現すると、完全に私に責任があるように聞こえますね。間違っていません。次男にとって、自分と世界の足掛かりになる安心材料は、母親である私だったのですから。私がしなやかで柔軟な心の持ち主であったのなら、幼かった次男に気を遣わせてしまうという愚行を冒さずに済んだのですから。
 
現在高校生になった次男は、彼なりの個性を発揮し楽しく登校する毎日を過ごしていますが、それでも一度植え付けられてしまった「弱いママを守らなくては」の意識は中々取り除くことができません。私を気遣う次男の様子は、私の過ちを見せつけられているようで、情けなさとか罪悪感がモヤモヤと膨らんで、表情が硬くなってしまいます。悪循環・・・は、まだ時々、発生してしまいます。
 
でも、本当に全部が全部、私の責任だったのかな?そんなふうに自分に問い直すキッカケとなったのがあーちです。
あの頃の私に起こった事が何だったのか。予想を超えた度重なる介護と育児。
誰にも話すこともできずに、思考を停止させてロボットのように身体を動かして・・・。言葉にしようとすればするほど、喉の奥がギュッとしまり、声が出なくなって、涙があふれてくる。そんな自分を弱い、ダメ人間、と認識するのはとても簡単で単純な発想と思考回路です。本当に私だけがダメだったのかな?と考える冷静さを取り戻すには、私の言葉を、訴えを、判断せずに受け止めてくれる人が必要でした。たまりにたまった澱みを出し切る作業が必要でした。同時に子ども達の笑顔を見る事で少しずつ、本当に少しずつ、自分の足元が見えてきたのです。
 
 ああ、私が悪かったんじゃなかった。私が、夫が、何かが。責任は誰か一人にあるのではなくって、誰もが悪くなかったし、誰もが悪かったんだ。
 あーちの学生さんたちは子ども達の笑顔を引きだしてくれている。
 親がどんなに落ち込んでも子ども達は誰かと一緒に笑う事ができるんだ。
 
 私はやっと、安心して嘆く事ができました。泣く事ができました。
 様々な障害、大半は知的障がいがある人達が集まる金曜日のよるあーち。
 みんな、笑っている。時々怒っている人もいる。
 気持ちをそのまま表現している姿をみて、私は恥ずかしくなったのです。
 小賢しい、中途半端な知能があるせいで、物事の責任を誰かに押し付けてしまう。そんな判断をしてしまう。他人のせいにすることも、自分のせいにすることもとても愚か。
 長男のように知的障害が重い人ほど、誰かに責任を押し付けるなんて考えないで、笑う、怒る、悲しむ。まっすぐに、生きている。その姿は私にとって希望のような、大きなヒントになったのです。
 
 少しずつ時間をかけて、冷静さと、自分への愛情を取り戻した私の変化に伴って、次男も笑顔が増えていきました。イヤな事はイヤ、と自分の気持ちを言えるようになってきました。
 
 直接子どもを助けてくれたのと同時に、親を救うことで間接的に子どもを笑顔にしてくれたのが、あーちでした。
 だから、これからもあーちに頼りながら、私は私を取り戻し、子ども達は子ども達でそれぞれの世界を広げていきたいと思っています。
 
 
 

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