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介護のポテンシャル 第2回 その2  「介護士の心構え~ベテラン介護士に向けて」

みなさんこんにちは!
社会福祉法人サンシャイン企画室の藤田です。

われらが森藤部長による「ベテラン介護士」へ向けた、こんなのどこでも見たことない!とびっきり上級の熱すぎるきもちのお話です。

ということで長く長~くなりましたので、3回に分けてお送りします。

今回は前回の続きです。
では「その2」、早速まいりましょう!

テーマ:『特別養護老人ホームで介護士として働くということ~ベテラン介護士に向けて』
講演:森藤新部長


介護、その始まりは人類とともに

まず人の行動について考えます。

人は心で思い・考えることを身体に伝え、無意識のうちに行動を起こします。「水が飲みたい」と思った数秒後にはもう冷蔵庫を開けてペットボトルに口をつけている私がいます。

私はこの間ほとんど何の理性も働かせていないし、行動の論理などということも考えていません。もし何か考えているとしたらきっと「この水いつから冷蔵庫に入っていたっけ?大丈夫かいな?」などということぐらいで、水を飲むための身体行動をどのようにして起こしたらよいかなどということなど一瞬たりとも考えてはいません。

ところが身体に何らかの障害が生じると、心で思い考えたことを身体に伝えても思い通りの行動ができなくなります。その行動の中でもその人の生命を維持するための行動、例えば食物摂取、排泄行為、身体を清潔に保つ行為など、ができなくなるとその人にとってこれは致命的なことになります。さあどうしますか?

当たり前だけど、自分でできなければ誰かに「代わりにやってもらう」しかないですよね。この「代わりにやってあげる行為」、これこそ介護の始まりにほかならない、と私は考えています。

こうした、自分でできなくなったことを誰かに代わって行ってもらう、という行為は、昨日今日に始まったことではなく、いつからともわかりませんが、人の歴史とともにあったはずなんです。だって、人は必ず老いるし、老いるにしたがってなぜか(あるいは当たり前かもしれませんが)身体が思い通りに動かなくなります。

介護が始まった頃の大昔の人々がこの「代わりにやってあげる行為」を介護と呼んでいたとは思いませんけど、この「代わりにやってあげる行為」が間違いなく大昔からあった。

つまり「介護は人類が誕生したと同時に誕生していた」のです。介護は人類誕生以来今まで、何十万年かわかりませんが、とにかく綿々と続いてきていたはずなんです。

なのに、介護の話は歴史上ほとんど話題になることがなく、表に出てくることもありませんでした

介護の話がほとんど話題になったことがない理由

それはなぜでしょう?

「代わりにやってもらう行為」が必要になった人は普段どこで生活していたのかというと、当然家の外を走り回っているわけはないので、家の中できっとひっそりと寝転んで過ごしていたんだろうと思います。

つまり、こういった人は家の人、つまり家族の世話になりながら何とか生き永らえていた。

そして誰しもそのような状態はあまり外の人に見られたくないと思うだろうから、「代わりにやってあげる行為」というものは家の中、それも目立たない場所で行われていたに違いないわけです。

またその様子を家の人が外の人に自慢げに話すようなこともなく、それどころか「代わりにやってもらう」ことが必要な人の無様な姿はむしろ隠したい、というのが本音だったろうと思います。また外の人もそういうことに触れるのは気が引けるので、このことは努めて話題にはしなかったに違いないんじゃないでしょうか。

このようにして、介護というものは人間の歴史とともにありながら、決して日の目をみることなく、人の意識下に押し込められ続けてきたと思われるんです。

まあ、もっとも昔の人の寿命はそんなに長くはなかったので、ましてや病気など伴ってそういう状態になった人はきっとそこそこの期間で亡くなったりしていたのでしょうけど。

亡くなってしまえばもうそれで終わりなので、今後の人々のためにどういう介護をしたらよいか、などと考えをめぐらすことなどしませんよね、普通。ましてや、こんな状態になったらこういうふうに介護したらよい、などと後世の人々に記録を残すなどとんでもないことだったでしょうね。

このように、介護を受ける姿というものは誰しもあまり人に見られたくはないだろうと思われます。だから歴史上介護が表に出ることはなかったのだと思います。

以上人類とともに誕生した介護のことを少し長々と述べてきました。

まとめると、介護は人類誕生とともに始まったということ。そして「介護を受ける」ということは、人間が歳をとってくると多くの人々が自然と向き合うことになる事象であるにもかかわらず、「かなりのプライバシーの侵害を伴う行為」だということ

そしてもうひとつ。だからこそ、人類誕生以来、介護は決して社会の表舞台に出ることはなく、各家庭で隠れるようにひっそりと行われていた行為だったのに、最近の日本、特に2000年に介護保険制度が出来てからは、その介護が社会の表舞台に出てきてしまった、ということになります。

「介護の専門性」=「特別な人」になれること

もう一度言うと、介護はプライバシーの侵害を伴うゆえに、各家庭でひっそりと隠れるようになされるものだった。それが近年になって社会福祉を経て介護保険ができて以来、表立ってきて、介護の担い手が家族から介護士へと変わっていった。

そこまでは了解されたと思います。

ですからそうした介護を行う介護士は、介護を受ける人にとって、「新しい家族」であるかのような、その人にとって「特別な人」であることが願われるようになっている、ということです。

私はそこにこそ「介護の専門性」が求められると考えます。

「介護の専門性」というのは、「身体的な介護作業」よりも、その方にとって「特別な人」となれるような、介護対象者との「精神的なやり取り」の中にこそ、求められるものということになるのではないでしょうか。

ただ、こういった精神的な要素はなかなか外からは見えないし、だから評価もしにくいです。「介護の専門性」を客観的に規定することは大変難しいことです。

介護される側からみると介護職員の作業としての専門的レベルがどうのこうのなどどうでもよくて、今自分を介護してくれる人が自分にとって「特別な人」であるかどうかということがもっとも大切な、気にかかるところです。

「特別な人」以外の人に介護を受けるのは本当は嫌なのです。考えてもみてください。介護職員が頻繁に入退職している施設に自分が入所していて、しょっちゅう新しい見知らぬ介護職員が私の部屋にやってきて、「さあ、オムツ交換しましょう」などと言われたら、「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。あなた誰ですか」ということになるのではないですか?だから、わたしにとっての「特別な人」を寄こしてください、ということになるのです。

そしてこの、介護される人にとって「特別な人」になれること・なっていることこそが、ベテラン介護士と呼ばれるための資格だと、私は考えているのです。

そして、こうした「特別な人」になれるかどうかは、その介護士に備わっている性格や性質が大きく影響しているのではないかと考えられがちですが、私はそうは思いません。

介護作業員から介護士へと、意識的に「意識転換」できるかどうか。そういった「意識転換」をしようという「意志」があるかどうかの問題だと考えています。

もし、みなさんがそういう観点から介護の在り方を見つめ直すなら、そのときまさしくみなさんは「介護士」の領分に一歩足を踏み入れたと言えるのです。

そして、そこから、また異なった景色が見えてくるはずです。

長くなりましたが、「ベテラン介護士になるということはどういうことなのか?」については、以上で終わりです。

ですが次にもうひとつ、わたしからみなさんに提案したいことがあります。もう少しお付き合いください。

(to be continue !)

ということで「介護のポテンシャル」第2回『特別養護老人ホームで介護士として働くということ~ベテラン介護士に向けて』の「その2」をお送りしました。
次回はラスト「その3」に続きますので、臥薪嘗胆の思いで待っててくださいね!

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