ガンではもう死なない選択が出来る?!⑥
少し母との関係に関してここでお話ししておきたい。
わたしは、母が29歳の時に生まれた、一人娘だった。
お見合いで出会った父と意気投合して結婚、すぐに私がお腹に入ったために、生粋の江戸っ子だった母だが、父親の地元大阪に移り住んだ。
父は、生地の再生会社を経営していた両親の長男、跡取り息子だったが、彼の本当の父親はこの会社を設立し、戦争に出征し、息子を抱くことなく亡くなってしまう。祖母は周囲の強い勧めで夫の弟と結婚させられた。
父に兄弟はいたが、父だけが父親が違うこともあって、叔父である父との関係性が上手く保てなかった。
私が生まれてすぐ、私の両親は大阪を離れ東京に戻ってくることになった。
この時、父方の祖母に融資してもらい、母は東京の中野区に小さなブティックを経営し始めることになった。この事が、後に夫婦関係を悪くするとも知らずに・・・最も、このブティックがあったおかげで私は母子家庭でも金銭的な不自由は一切なく育てられた。
大阪を出て、東京で仕事に就いたものの父と母との関係はドンドン悪化していった。
ブティックの経営と子育ての両立は、母に女としての優しさを忘れさせた。
収入がどんど上がり、父の収入を追い越していった。
男としての焦りといらだちは、父に男としての優しさを忘れさせた。
犬猿の仲、寄ると触るとけんか、私の両親に対するイメージは明るいものはほとんどなかった。
後で知ったことだが、父親は平家の落ち島の出身で母方の祖母は源氏の流れを組む一族の出身。源平合戦さながらの日々だった。
私は幼い頃からパパッ子だったこともあって、母に対して常に冷たい視線を送りなついていなかった。
しかし、3歳の時父が家を出て行く形で別居状態となった。
一時、私が父親を恋しがったこともあって、復縁するが数年で破綻した。
中学1年生の時に正式に離婚する事になった。
私は、ずっと母の元で育てられたが、私は母が嫌いだった。
いつも感情にまかせて叱る母が苦手だった。もちろん手を上げることも多々あった。
祖母の家に週末や夏休みなどに遊びに行くと家に帰りたくないと言って、祖母や叔母達を困らせたものだった。
大人になってうつ病を発症し、心療内科に通った時医者に
「あなたにとって祖母とおばさん達がいなければ、鬱病でなく分裂症などの重い精神疾患を煩っていただろう」と言われたこともあった。
誘導瞑想で子どもの頃の幸せな時間を思い出すとき、私の思い出の中に両親はいなかった。いつもそこにいたのは、祖母と叔母達だった。
私は、憎んでいたのかもしれない、私から父親を奪った母を・・・
しかし今ならわかる。
あの時の母には、そして父にもあれが精一杯だったこと。
ブティックを経営しながら、私を育て、家を建てた母。そこには、子どもの私には理解できなかった苦難があったことだろう。優しさよりも生きることに必死だったこと、今なら理解できる。
私が、食べ物を大切に出来るのは、母から常に食の大切さを教えられてきたことにあったと思う。今も母は言う
「ヒサヨちゃん、食は命よ。いい加減な食事はダメ。野菜をしっかりとって、バランスを考えて食べるのよ」と
父は、母との離婚後別の女性と再婚し家庭を持ったが、私に車の免許を取らせ、車を買ってくれた。今の夫と結婚したときは、喪服とピアノを持たせてくれた。
両親なりにその時出来る最大限の愛情表現をしてくれていたが、私には両親の愛が見えていなかった。
父は9年前に亡くなり、母は86歳の現在マンションで一人暮らしをしている。農家の嫁として嫁いでしまった私には母を引き取ることが出来ない。それを理解している母は、老人ホームには入らず自力で生活している。
人に迷惑をかけずに生きて生きたい。それが母の口癖だ。そして、私に迷惑をかけずに生きることが子ども孝行だと思っているようなところがある。
ありがたいことに認知症の症状は皆無。脊柱管狭窄症で腰痛は抱えているが、毎日自分が食べたい物を手に入れるために出かけていく。そしてそれが出来ると、感謝している。
母の使う言葉は、感謝の言葉や優しい言葉がけが年を追うごとに増えている。
マイペースで変わらない頑固なところもあるが、母は今の私にとって愛おしい存在である。