見出し画像

ガンではもう死なない選択が出来る?!⑤

雑穀料理を教えるコーチの資格を取るために当時は最短でも6ヶ月の時間が必要だった。雑穀料理の未来食スクールに1年通いものの考え方を学んだり、コーチとして教えていく勉強を始めた頃、私の身体が急激にバランスを崩しはじめた。
30分以上立っていることが難しいくらいの貧血症状が私を悩ませた。
その間も、出席しなければいけない授業があり、夫に何度か車で送迎してもらう状態。
血液検査に自然療法の田中佳先生の元を受診した。
検査結果をお見るなり先生に言われたのは
「この数値はおかしいよ。君は誰よりも身体に良い食事をとって健康面に気を遣っているはず、なのにこんな数値になるはずない。これは心にトラブルがあったんじゃないの?」
すぐにピンときた。
私の考え方の悪い癖から、料理教室の仲間の中でトラブルを抱えていたのだ。
そんなにダイレクトに周囲との関係性や自分の心の問題が健康面に影響を及ぼすのか、驚きつつもそのことを解決させると嘘のように身体も元に戻った。
一番面白かったのは、ふらふらで料理をするのも30分ごとに休み休みやっていたのに、何故かバンドの練習でスタジオ入りしたときは、声の出は悪かったものの2時間練習が出来たのだ。
自分が楽しいと思えるときは、身体の状態は勝手に良い方に動き、ストレスを感じるときは、悪くなってしまうことを体感した。

心が健康に大きな影響を与えることを学び、体調が良くなってきた頃、今度は私の最も大きなテーマだった母親との向き合いが起こってきた。
当時、母は83歳ブティックを経営していたが、景気の悪化と個人店の経営の難しさにかなりな借金を抱えた状態だった。
ずっと、母親の妹である叔母達が金銭面でサポートしてくれていたが、叔母達も高齢で、これ以上姉の面倒を見続けるのは厳しいと私に訴えてきた。
母の借金まみれの状態を打開するには、商売を辞めさせ、当時住んでいた家を売り、借金を完済して別の場所に住まわせる。それしかなかった。
しかし、50年以上慣れ親しんできた土地で商売し私を育ててきた母にとって、商売を辞めることも家を売ることも苦渋の選択。決して頭を縦に振らないことは、わかりきっていた。
借金の金額を調べ上げると、その中の行政の借金は年内に完済しなければ抵当に取られた家を競売にかけられてしまうところまで来ていた。
抵当に録られた家を競売にかけられたら、一銭も残らず老後の生活費も失ってしまう。
その時、8月、ギリギリの選択であることを母に説明して、商売を辞め、家を売りに出す事を納得させた。
8月から毎日のように母の元に通いながら、商売を辞める手はずや家を売る算段や新しいマンションを探したりと大仕事が私の上にのしかかってきた。その間、不安でいたたまれない母は、よく私を罵った。そんな時も、母を落ち着かせ、状況を説明し、「私に任せてくれれば大丈夫だから」と言って納得させ。自分の感情は崩さず、笑顔の対応を心がけた。
しかし、家に帰るとボロボロ、お風呂の中でポジティブになりそうなひすいこたろうさんの本を読みながらよく泣いた。
3ヶ月で、家を売り、マンションを見つけ、引っ越し、その直前母が胃潰瘍で入院なんて事もありながら、何とか借金を全て完済し老後の蓄えも作ることに成功した。
全てが終わった頃、母が私と一緒に温泉に行きたいと言い出した。
腰が悪く、あまり歩く事が出来ない母を車で箱根に連れて行った。
夜、体調を崩した母を看病したりもあったが、翌朝は元気を取り戻した母。
母と娘の箱根一泊二日珍道中はあっという間に過ぎていった。
帰りの車の中で「ひさよちゃん、ママ幸せよ。もうこのまま死んでも良いくらい、ありがとうね」
生まれて初めて聞いた母からの優しいねぎらいの言葉だった。
この日から、鬼だと思っていた母が急速に仏に変わっていった。

その年の暮れ私は無事に料理を教えるコーチの資格を手にすることが出来た。癌になって3年目の冬を迎えていた。
その頃の私は、すっかり癌患者の顔ではなくなっていた。
私は、夢に向かって突き進んでいた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?