見出し画像

個人的なすみませんより社会的アリガトウが推奨される素顔の見えなさ

間を埋めるように最期の帰り際に
「大変でしたね」と言われた時に

即座に「何が?」と質問で返した時に

この方は仕事が出来て頭が切れる人と思った

傍らで見てただけだけど
たぶん何が大変かは私が決めたいし
何が大変に見えたかを知りたいとも
会話から感じられて覚悟と丁寧さを感じた。

頭の切れる人は頭の回転も然ることながら
アウトプットの取捨選択も桁外れで
本質を最先端で行く質問力があり羨ましい。

私も有難うと言われた時に

即座に何が?と聞きたいし

感謝の背景を言葉にしたい


すみませんは良いのに不思議ね

私にはアリガトウが軽いのかもね

アリガトウはさも社会的に良い言葉でさ

でも本当は次もヨロシクお願いしますよ
と爽やかさにドロドロしい期待混じりや
嘘でも言えると思ってる面倒な私が居るね

だからアリガトウが私は怖くてさ
文句をぶーたれてる人が可愛くて
弱音吐きながらも向き合い来る人を
素敵だと思ってるのかもしれないね

でも個人的な時は
相手の可能性や力を奪わない様に
私も護り時間と場を限定しつつ
線引きも大切にしたいけどね

自分に向かうすみませんを
私は時に美しいとすら思うよ

すみませんって言えたんだねと
謝罪の癖のある私を観るようで嬉しい

ふざけるなって人も真剣なんだねと思う
ありがとうを社交辞令に受け取る私は
マダマダ未熟なのかもしれないね

みんなの中で
すみませんとありがとうは
どんな感じに響く言葉ですか?

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?