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自分の字と言葉

こんばんは。

数日前に書いた記事。
もう少し書きたくなった。


確かこの日はこうゆうことを書くつもりはなく書き始めたのだった。
そう、そもそもは久しぶりに字を書く時間が増えたら字を書くのが上手とまでは言えないけど、字を書く筋肉が戻ってきたことを感じ、それが嬉しかった。

字を書くことが減り片言に話すようにカタコトにしか書けなくなり、少し距離のあいていたわたしと字に一体感が出てきたなあと思ったことを書こうとして、どんどん脱線して戻れなくなってしまった上に、眠たさがやってきてしまった。ので、こんな感じになっていて、後日ふと読み返してあわてたのです。

なんで慌てたんだろう。
書きたかったことが書けていないからではなく、
大事なものを大事に書けてないと思ったから。かな。

手書きの文字はたとえそれが手紙のように気持ちをのせる言葉ではなくても、
わたしは見入ってしまう。

へえ、こんな字を書くんだ、と思い、
おや、どんな字を書くと思ったんだろう?と自問したり。

わたしの好きな字を書くひとは、その人のこともいいなあと思ったり。

字を先に見て、どんなひとなんだろう?って思ったり。

あれ、やっぱり脱線し始めた気がする、読み返す。


'大事なものを大事に書く'
って書いたけどどうやったらいいんだろう。

わたしがほんとうに書きたかったことは、
大事にしたくて大事にしてるのは、
「そのきもち」なんだろうな。

そのきもちを伝えようとしてくれてるものとして手書きの文字が、すきなんだ。

言葉で話して伝えるのもとても良いとおもう。
声というやわらかさをもって包むし、聴こえる。内で鳴り響く。これも良い。
会うことにはかなわないかもしれない。
会うことやそばにいることとまたべつものにしておきたい。

手書きの文字は温度を感じる。そしてそこに在る、在り続ける。どこにも行かずにずっとそこに在る。何度も何度も読み返せる。

そこに確かにある文字は、それを書いたひとが確かにいたということ、それを書こうと思ったという思いがあること、自らの手で書いた時間があるということ。意思と手間と存在。

手で書くことはめんどくさいというひとがいる。
そうなのかれない。
めんどくさいと思う人にはめんどくさいでおわるんだろうな。

でも、わたしはこの種のめんどくさいことが苦じゃなくて、たぶんすき。
めんどさいと思ってないからめんどくさいことではないけど、めんどくさいことをしてまでそれをしたいとおもうこと、おもわせるその存在とそうおもうわたし自身とをまるごと味わえるその時間をたのしみ、しあわせと感じる。

書くことが好き、書くことを厭わない、
そのことを共有できるひとを見つける手がかりでもある手書きの文字。
あえて手書きしているのを見つけると、
あ、ここにいた、とわたしの中でフラグをたてる。このひともこの世界ではなせるひとかもしれない。そうゆう目じるし、旗印。

もちろんそのフラグがすべてではない。
フラグが立てばうまくいくとも限らないし、
フラグがなくてもじゅうぶんにやっていける。

すべてではない。けど、
ただ単に、わたしは好きなんだとおもう。

わたし自身が手書きのペースだから(つまりゆっくりしている)なんとなくここちよくいられる気がする。

ムリして書く必要もないし、嫌々書いても嬉しくない。まず機嫌良くいられることがいちばんだし、何においてもそれが一番大事。
そのひとが一番良い状態でいられることが最善。

その上でとる手段のひとつである手書きの文字がわたしは好き。書くのも書いてもらうのも嬉しい。

何がどう書いてあるかよりも文字そのもので伝わるものがあるような気がする。
わたしは受け取っている。

そうゆう行き交うものは言葉にならないんだけど、そこにある「そのきもち」を言葉にして贈りたい。自分の字で言葉で。

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