やはり「涙」は流さずにいられない。

人生最後の卒業式は中止

 卒業式はいつも泣いていたが、今年は泣かなかった。というのも、そもそも卒業式がなかったからだ。(なかったというより、中止になった。)

 この卒業式は私にとって、人生最後の卒業式であった。そりゃ、もし結婚して子どもを持とうものなら、子どもの卒業式に参加するだろうけど“自身の卒業式”は今回が最後だったのだ。-だからこそ、より節目としての意味合いや特別感は並々ならない。

 これだけ見ると、卒業式への思い入れが強そうに感じるか実際に中止になるまではそうでもなかった。「袴のために伸ばしてる髪も早く切りたいんだけど。中止なら早く言って」とか「とりあえず、ちゃんと学位・教員免許状・会社に出さなきゃならない諸証明書をくれ!」とわりと本気で思ってたし言っていた。

 でも、いざ実際に中止が確定すると「お世話になった先生や友達に挨拶したり、一緒に写真撮ったりできないんだなぁ。。。」-この事実が深く突き刺さってきた。

幻の卒業式

 卒業式が中止になったということは、今年度いっぱいで退職するゼミの先生と“一緒に卒業すること・卒業式で最後に点呼してもらうこと”が叶わなくなったことを同時に意味した。

 そんな中、ゼミの幹事であった友人が「幻の卒業式」を企画してくれた。本来卒業式をする予定だった日に集まれる人は学校に集まって(そもそも、学位記は自分で取りに行く必要があり本来卒業式があった日からしか受理できなかった)、ゼミの先生に色紙とプレゼントを渡すというものだった。

 そして当日-。ゼミ生全員が集まったわけではないが、集まりの悪いゼミにしてはそれなりに集まり、午前中いっぱい「幻の卒業式」は開催された。

 学務課でもらった学位記を改めて先生が点呼して授与して下さり、プレゼント・色紙も無事渡し、写真もたくさん撮り‥“卒業式らしい”ことができて、「幻の卒業式」は幕を閉じた。皆で卒業式らしいことができたのはもちろん、4年間、いろんな面でお世話になり、来月からは全く別の路に進む友人にしっかりと挨拶できたので“幻の卒業式”を開催してくれた友人・集まったゼミの皆・先生には感謝でいっぱいだし、この式には満足感しかない。

最後の学食

 どのゼミも基本的に集まってうちのゼミのようなことをやっていたため、他のゼミ・学科の友人に会う約束は午後からしていた。

 約束まで時間があったのと、お腹が空いていたので「幻の卒業式」の後、ゼミの中でもとりわけ仲の良かった友人と最後の学食を食べた。学食というか食堂は本当に最後まで期待を裏切らず、最後だというのに相変わらず「クソ対応」であった。まぁ、これももはや笑い話になると思うのだが。(無表情で機嫌の悪そうな対応をされる。友人に至ってはカレーを注文したのだが、具が肉ひとかけらのみで一周回って笑っていた。)

 思い出話に花を咲かせているところ、たまたまゼミの先生が通りかかり3人で食事をした。(教授と食事するって初めてだった。最初で最後。)先生は「幻の卒業式」の時に濃厚接触は避けたいから握手はNGとあれだけ言っていたけど、一緒に食事するほうがよっぽど濃厚接触では???と思ってしまう笑

教職課程

 最後の学食を食べ終え、教職課程の友達2人と教職課程をきっかけに仲良くなった後輩のもとへ向かった。ここでも午前のように写真を撮影した。しかし、午前と違うのは学位記ではなく教員免許状を持って写真を撮ったことだ。

 教員免許状は驚くくらいただの紙ペラ(学芸員はカッコいいらしい)なのだが、その紙ペラを取るまでの道は本当に大変なのだ。(参考までに記載しておくが、卒業に必要な単位数130単位に対して私の取得した単位数は180単位)この紙ペラを取るまでの長い道のりで共に頑張り、支え合った2人は【友達】ではなくもはや【同志】だからこそ感慨深い写真になった。

 それぞれサークルの友達と写真を撮ったり各々集まりがあり、そちらを進行しつつも、だらだら喋り、学位記と免許状に推しの写真を持って写真をまた撮ったりとアホなことをずーっとしていた。それらが落ち着いてから、教職課程でお世話になった先生の研究室へ向かった。

 2時間ぐらい居座って延々とあれやこれや懐かし話から最近の社会問題・政治の話(免許状の教科からして、どうしてもそういったトピックになってしまう)をして、また免許状と学位記を出して先生も一緒に写真を撮った。もう1人、会いたかった教職課程の先生はあいにく不在だったため、 Boxに書いてきた手紙を入れておいた。

 どれだけ写真を撮ったり喋っても「GW飲みに行こうね!またね!」と約束し、ここ(卒業式)が何かの区切り感は一切なく、また日常が繰り返されて、その日常の中で頻度は減るけどまた会える。-こんななんとも言えない気持ちになった。

 まだ就職してすぐや数年は調整すればそれなりに会えるだろうけど、新たに家族を持つと皆そう簡単に会えなくなる。自分は今のところ結婚できそうにないから、こうしてどんどん皆と疎遠になっちゃうのかなぁなんて思ってみたり。その時が来たら、決まった場所で当たり前のように同じメンバーに会う学校の意味に気づくのかなと物思いに耽ってみたり。でも、卒業式がなかったせいか卒業式っぽいことしてみても区切り・節目が曖昧で、卒業した実感は全くなくて涙なんてほど遠く笑ってその日は終えた。

 そして

 それから数日後。買い物の用があり遠出した際、昼食をとるためにとんかつ和幸に入った。

 いつものメニューを頼み、メニューが届くや否やソッコーでキャベツを消費し、とんかつを味わい、味噌汁とご飯を食べ終わったところで味噌汁のおかわりを注文した。

 呑気におかわりを待っている時、ふとスマホを見るとGmailが1件来ていた。この時期に来るGmailは大抵会社から来るものなので「会社からだろう」と信じて疑わなかった。

 実際にメールを開くと会社ではない、見慣れない宛先。その宛先は、本来卒業式があった日に会えなかった教職課程の先生のアドレスだった。無事に置き手紙と春休み中にドアノブにかけておいた(春休み中に先生のもとへ伺った際も不在だった)ピューロランドのお土産が手元へ渡った旨とそのお礼、社会へ出る私へのメッセージが綴られていた。

 とんかつ和幸の、卒業式で流れていそうなBGMもあいまって「卒業」を実感する涙(瞳が潤む程度ではあったが)が滲んだ。そして、そのままおかわりの味噌汁をそっと啜った。やはり和幸の味噌汁は美味しいし、私の「卒業式」には涙は欠かせないのだった。

 お会計を済ませ、和幸を出ると通勤鞄を買いにデパートへ向かった。その道中、4年前の大学受験のこととこの4年間が一気に蘇った。

 私の大学は所謂難関大学志望者が滑り止めとして、「まぁ、いざという時は通ってもいいかな」といった心意気で受けるので、一部の人からは「所詮滑り止めでしょ」と見下されることがある。(難関大に落ちた実はめっちゃ賢いですよって人がその分いるんですけどね)私も難関大志望者だったため、滑り止めとして受験し、難関大に玉砕した結果の進学先だった。高校時代の同じコミュニティー(所謂、グループ・派閥にあたるもの)で難関大に受かった者には目の前であからさまに小馬鹿にするような態度を取られた。(そんな奴は友達ではないので、卒業後、即お見切り!)

 中学受験で行きたい学校に行けなかった時、自分が進学する学校に対してネガティヴな気持ちしか抱けず(この時はあんまり偏差値が変わらない学校に行く子に軽く馬鹿にされた。以来、学歴コンプレックス)、入学後もその気持ちに引っ張られてなかなか上手く学校生活を送れなかったのだ。その時の反省を生かして、大学進学時は「自分の学校について悪く言う意見は徹底的にシャットアウトする。その逆はたくさん取り入れる。」ことにした。スルースキルがあればそんなことしなくても良かったのだろうけど、自分が他人の意見に左右されやすいことがわかっていたので、それなりに数年付き合ってきたコミュニティーの人間だろうが、自分が自分を信じる以上に信頼していた担任だろうが、「あなたの大学は所詮【滑り止め】!」とメッセージを少しでも出してくる奴とは物理的に距離をとった。(こーゆー人たちってわけのわからん自己肯定感がおめでたいくらい高いので、自分の言動を忘れてのうのうと話しかけてくるんですよね。なんなんですかね?)-この行動に後悔も一点の曇りもない。

 そうしてスタートした大学生活。誇張なしに、友人や先生に恵まれ、自分が学びたかった学問は全て学ぶことができた。自分がその大学に行かなければ出会えなかった人がたくさんいて、ここでしかできなかったことを充分にできた。-つまり、進学した大学で世間の評価やら偏差値を超えた自分なりの価値を形成、あるいはそれを見出すことができたのだ。

 本当にこの道で良かったんだなというのは自分でしか決められない、というか評価できない。それが自分は自分でできるようなった。最後の卒業式でそう確信できた。


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