アニメ「どろろ」感想①鬼神システムについて

・完璧に噛み砕けてる気はまるでしない
・個人的に「こうかな?」って思ったこと
・ラストまでものごっつネタバレしてます

わかりやすくまとめられそうなところから手をつけていきます。
まず一番すっきりまとめられそうな鬼神システムについて。


・他の方の考察で見かけた「醍醐の国は元々12番目の鬼神(最終話に出てきたやつ)と初代の当主が何らかの契約をして興ったものなのでは?(醍醐の城の地下からものすごくでかいのが出てきた=あそこを巣にしていたのでは?)だから朝倉に『バケモノの国』って言われているのでは?」っていう意見を踏まえて話を追ってみると割と綺麗に繋がった気がするので書き出してみます。

前提条件とか。

・醍醐の国の初代当主が鬼神と何らかの契約をして(恐らくは醍醐領一国を守護する系の約定を結んで)国を興す。12番目の鬼神は城の地下に巣食う代わりに、当主から何らかの対価を受け取っていた。
・景光の代で約定の効力が薄まってきた、もしくは周辺諸国が荒れ果てたように醍醐の国にも鬼神一体の力では足りないレベルの荒廃がやってきていた
・全ての国が荒れ果てている今、鬼神の力を借りるというチート技が使える醍醐領の当主なら、国を豊かにしてさらに天下を狙えると景光が考える→1話の契約シーンへ
※初代の契約は逆に12番目の鬼神(他の11体とは格が違う)を醍醐の城の地下に縛り付ける制約も含んでいたのではないかな。自主的にとどまっていたのでもどっちでも話は通るので構わないのですが。

本編途中(ばんもん)までの流れ

・11匹は百鬼丸の体を食らうことができたが、最後の1匹が一番美味しい部分(頭)(もしかすると頭・心臓を含んだ残りの部分全てだったのかも)を食いそびれ、縫の方の祈りの力が篭っていた観音菩薩により逆に力をある程度封じ籠められる(琵琶丸が地獄堂で言っていた「この一体だけはなんとか封じられているけど、それもいつまでもつやら、の状態」)
・12話で観音菩薩が破壊されたことにより、12番目の鬼神の力が復活し、近隣で倒された(もしくは鬼神が重要度が高いと見なした)百鬼丸のパーツは彼の体に戻る前にかすめとることが可能になる。

12番目の鬼神の狙いはなんだったのか

百鬼丸をひとりで丸ごと喰らい、12の鬼神を超える力を一人で得ること
…だったのではないかなと。


それも、多分陸奥が地獄堂に来て取引を持ちかけた時点で「パーツを取り戻すために人を斬り、弟を斬り、修羅に落ちて鬼神となりより強い力を持つようになった百鬼丸を喰らうこと」に変更されてます。

琵琶丸は鬼神の思惑を見抜いてますね。多宝丸たちと百鬼丸の戦いを見て「百鬼丸と鬼神との陣取り合戦」と言ってましたし。

陣取り合戦だったんです。12番目が最後に逆転の罠を仕掛けてた陣取り合戦。


1話開始時点で12番目がそこまで考えていたのかは謎ですが、ばんもんで縫の方が観音像を取り落として自害しようとして、像から緑の光が消えた(=最後の抑えが弾け飛んだ)後ははっきりそれを目標に動いてると考えて良いと思います。

・13話で縫の方が「安寧の時は終わりました」って言っていたけど、縫の方が最初の約定の存在を知らないだけで、(景光は最初の約定も知っているでしょう)破棄されたのは景光が結んだ契約ではなく最初の約定の方で、城に鬼神を引き続きとどめおくためにも、百鬼丸を殺して彼をもう一度鬼神に食わせなければ…みたいなことを景光が考えてあの表情になった可能性はあると思います。


・百鬼丸は体に固執しているからパーツを持っている鬼神に惹かれる、重要なパーツを所持していれば彼は必ず12番目のところ(醍醐領)にやってくる。

・病に侵されて焦った陸奥が地獄堂にやってきて契約をもちかけた時点で、12番目は「陸奥・兵庫・多宝丸の3名を餌として使える」と判断
・12番目、さらに人間のままの百鬼丸をただ城におびきよせて喰らうより、全てのパーツを取り戻すと同時に完全に修羅に落ちて鬼神と化した百鬼丸を食らった方がより強い力がつくとも考える
・3人に百鬼丸から奪ったパーツを植え付けて、彼を呼び寄せる餌にすると同時に、「パーツを取り戻すために人を切らせて、百鬼丸を鬼神として完成させる」準備を整える。


・12番目が「多宝丸は百鬼丸に負ける」と判断して彼に目を植え付けていたことは、最後の鬼神が地下から出てきたタイミングでわかります。12番目は百鬼丸に目が戻る=多宝丸を斬り殺した(と12番目が判断できる)タイミングで現れて、百鬼丸を触手のようなもので絡め取ろうとしています。


百鬼丸に目が戻ったタイミングで地下から浮かびあがってきた
→12番目の計算ではそれは百鬼丸が多宝丸(弟)を斬り殺した瞬間である
→目(真っ赤ですね)が百鬼丸に戻ると同時に、百鬼丸は鬼神に堕ちる
→鬼神に堕ちる=体が全て組み替えられるということなので、ただ単にパーツが戻るよりも動けるようになるまでに時間がかかる(生き物が鬼神化すると体を全て作り変えられることはミドロの変化シーンで示されています)、その隙に百鬼丸を食らってしまえばより強力な力を得ることができる

おそらく初代の約定を全て反故にして城から脱出し、醍醐領やその周辺諸国を蹂躙できる程度の力は得られる計算だったのはないかな。シン・ゴジラくらいの力は得られると踏んでいたのかも。

ところが、百鬼丸は多宝丸を斬らず、多宝丸が自主的に目を彼に返していたたため、百鬼丸は人のままでいられたので、体の変化は目の変化だけですみました。なので、百鬼丸は目を閉じたまますぐ動くことができた。そのため、12番目をギリギリのところで(捕食するつもりで上がってきたということは、最も無防備な位置を百鬼丸にさらしていたのかもしれません)倒すことができた…という展開だと思われます。

鬼神が喋らないのでわかりづらいんですが、百鬼丸だけでなく、多宝丸も醍醐の国も結構ギリギリのラインを綱渡りしていたというか、12番目の掌の上で遊ばれていたところを最後の最後で脱出できた感じですね。鬼神の意のままに動いてたら天下取るどころかもっと悲惨なことになってたと思われます…。

これだと最終決戦が多宝丸でも綺麗に話がまとまると思います。

醍醐の城はなんのメタファーだったのか

いろんな方が指摘している通り、子宮の暗喩だったのだと思います。

ただし、一部の方がおっしゃっていた「縫の子宮」ではなく、
「12番目の鬼神の子宮」つまり「鬼神によって誰かを犠牲にすることで平穏を保っている幼子の国」そのものの象徴です。

醍醐の国のありようそのものが、自分たちで努力をせずただ餌をもらうのを待っている雛鳥で、自分で餌をとる(地道な努力で様々な災難や疫病を克服してゆく)術を知らないというなら、毒母っていうか毒親はまさに最初の鬼神なのですね。鬼神は子供(国)を自立させずに飼い殺しにし、搾取し続ける毒親なわけです。

多宝丸がダメにされた(思考停止状態に追い込まれて鬼神の意のままに動くようになった)のも毒親(鬼)(の代弁者であるところの醍醐景光)に誇り(父は地道な努力の末に国を豊かにし自分はそれを継ぐのだという矜持)を叩き折られ、良心を否定され、国のために生贄を捧げるのは当然なのだと洗脳されたせいですし。
あれは鬼神の子宮であり、同時に鬼神をあそこで殺すことが父権の支配からの脱出=父親殺しにもなります。

縫の方が多宝丸を自分のエゴで子宮に沈めたって感想を見て「母親を子宮に閉じ込めて出さない母親とか小林靖子が一番かけないもののひとつだろ!?じっとりした女の嫌らしさまでかけるようになったら靖子この世の全ての地獄を書けるようになって完成された鬼神になってまうわ!!!!!」

って思ってたんですけどこの答えにたどり着いてしまった時の私のつぶやきがこちら↓

小林靖子「息子を子宮に閉じ込めて出さない母親は書けませんがそのモチーフを使いたいので本物の鬼に子宮をつけました」
私「いやその発想はおかしい」
22:36 - 2019年7月4日


あ、ちなみにあれが「鬼神の子宮」だと、縫、寿海、多宝丸も「生まれる」ことができます。生存可能フラグが何個か立ってて、死亡確定フラグは全部潰れてるので、どこかに落ち延びて生きてると思いたい人は思って構わないと思いますよ。(別記事でまたまとめます)

多宝丸は鬼神に操られていたのか

思考を完全に乗っ取られていた、という意味ならNOだと思います。
ただし、思考がそちらに向くように誘導をかけられたり視野を狭められたりしていた可能性はおおいにあるかと(醍醐の跡取りは百鬼丸だけだと言ったりね)。思考を完全に操るほどの力はないにせよ、最終決戦を城にしようと多宝丸が思ったあたりはある程度思考を誘導していると構わないと思います。(あの時点で多宝丸は鬼神のパーツを所持していますので、意識が自然と城のほうに向けられる、みたいなことはあったと思います)
人間の悪意をうまいこと利用して状況を組み上げていく系のいやらしさがある鬼神だよね、12番目…。人間にも時々いるやつ。

天下のため、民のためには自ら鬼とならなければと思っていた使命感は間違いなく本物でしょうし、良心を殺さなくてはならなかったことが心の奥底では辛かったからこそ、百鬼丸によって「お前は俺と同じだ、お前は人だ」と言われた時に、「かなわんな…」となって呪縛が解けたのだと思います。
操られていたのではなく、自らの意思で鬼となることを選んでいなければ、このセリフは出てこないですよね。


百鬼丸は何を「鬼」と認識していたのか

24話で百鬼丸が多宝丸を「お前は、人だ」って言ったってことはそれまで百鬼丸は多宝丸を人ではない何かと認識していたということです。だとすれば、それまで彼には多宝丸が何に見えていたのでしょうか。

もしかすると、百鬼丸は自分は「人」を斬ったと24話まで思ってないのかもしれません。

彼が「鬼神」=「自分から体、もしくは大切な何かを奪うもの」って定義しているのであれば、醍醐一家(特に多宝丸)も「鬼神」と同じ位置にカテゴライズされます。(鯖目の回でも「同じ」と言っていますし)
この定義ならば、ミオを奪った連中も、どろろを奪った連中も「鬼神と同じ」枠に入ります。ためらいなく殺してしまって構わない、と思っていたのではないかな。

鬼神でなければ妖ですら無闇に斬ったりはしませんものね、百鬼丸。

最終話で、自分から全てを奪おうとしていた多宝丸(百鬼丸にはそれまで鬼に見えていた)も人であることを知り、では多宝丸から何かを奪った自分も誰かにとっては鬼と言えるのではないか、人は鬼になることがある、自分は人として「きれい」などろろの側にいたい、では自分は今、人なのか鬼なのか…を確認するために地獄堂に向かって醍醐景光に会いに行く…という流れになります。

それ以降の流れで彼が何を考え、どうしてどろろに何も言わずに旅立ったのかの推測は、また別記事にまとめようと思います。


ひとまず1回目の記事はここまで。

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