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分かりにくさの保護

分かりやすいことはだいたいにおいてめちゃくちゃパワーがある。

ルメルトというひとが「良い戦略、悪い戦略」という名著で、状況を大きく動かす力点を見つけ出してそれに向けていろいろやっていくのが戦略だよ!みたいなことを書いています。大事なのは、別に事象や問題の全てについて対応するようなものではなくていいから、そこに注力することで成果を得られる力点を見つけることだ!という話。

状況を分かりやすくしろ、ということですね。複雑怪奇な状況の課題があるとして、つぶさにそのまま説明を並べ立ててもあまり有効な打ち手ができることは珍しいです。全体感が失われても、ある程度の正確性が犠牲になっても、大まかに整理するべき場所を見つけることが「これだ!」という決定的な対処方法へ繋がっていくわけです。

分かりやさの持つパワーはめちゃくちゃすごいです。人間はこの武器を使ってあらゆることを理解して、そこを力点にすることで世界を動かしてきました。もちろん戦争みたいなネガティブな例も出すことができますが、たとえば原子をボールの形をしてるとして考えてみてはどうか…みたいな形で科学の世界なんかでもたくさん出てくる話です。

分かりやすさの活用事例として個人的によく見かけるのがいわゆる「美談」の類です。林業や地方創生のような小さくて先行きが不安な世界では、美談がよく取り沙汰されます。西粟倉も、株式会社百森も、よく美談として取り上げられています。人を動かすために、分かりやすい物語を提示していくことが、戦略として正しいからですね。

しかし、美談は真実ではありません。乖離があります。美談に突き動かされた結果、荒野しかなくて絶望する。そんな光景もよく見かけます。また、それが美談であるということを知っていてもなお、実際に目にしたときのギャップに驚くという話も見かけます。それだけ、「分かりやすさ」というものにパワーがあるということだと僕は認識しています。

さらに言うと、美談を否定する時に持ち出される「美談の裏にある闇」みたいなのも、また結局は美談と同じくらい「分かりやすい」に焦点をあわせられた物語であることが多いです。まるで「空は青い」という美談を「空は赤い」という体験談で否定しているような話。どちらを見ても、まあそれは間違いじゃないんだけどさ、みたいな気持ちになる。

僕はわりとどんなレベルにおいても、美談も、それに対応する闇みたいな話も、距離をおいて接する癖がついてしまっています。

もしかするとそれはニューヨークという場所であの9月11日とその余波にまみれる日々を過ごしたからかも知れないし、大地震の直後に原子力発電所について説明をして四方八方から攻撃されていたのが知り合いの父親だったからかも知れないし、実家から自転車でいける範囲に国立療養所多磨全生園という施設があったからかも知れないし…。

単純に、もとからそういう性質だったのかもしれないし。

しかし、そういったものから距離をおいてしまうと、熱狂に身を置くのが難しくなるという難点があります。変に疑ったりせず、「分かりやすさ」の持つパワーに身を任せることができたほうがずっといい結果が出ることは、けっこうたくさんある。というか、基本的に人間社会はそっち側にあると思います。複雑さにかまけていては、価値を生み出せない。

なんでこんなことをツラツラと書きなぐっているかというと、分かりにくくてパワーのない世界というのに味方している人たちがどんどん駆逐されているなという実感があって、でも逆説的にそういった世界の保護活動みたいなのも見せていかないといけない時代になりつつあるのかなあというのをコテンラジオの存在で感じたりしたからです。

たくさんの分かりやすさやたくさんの美談とその否定形を自分の中に保持していくことで、複雑性を少しずつ消化していく、というのはいい指針だよなあと思います。できるかどうかはまた別の話だけども。分かりにくいことは別に嘘じゃない。真実でもないけれども。そういった世界と一緒に生きていくことができるようにしていきたいなという欲求があります。

最後に「僕はパワーのない、分かりにくい世界のそばにいるような存在になりたいなあと昔から思っています」という、分かりやすい整理をしておきましょう。

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