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言葉は好きだが言葉だけでは

僕は基本的に言葉以外のコミュニケーションが下手くそなので、言葉を使ったコミュニケーションを大事にしています。そして、そんな僕は会社を経営しています。結果として、この会社は言葉を大切にした組織になっていると思っています。

最近、採用をするためにメンバーに会社の雰囲気を聞いてみました。

「会社は家族、みたいな感じは全くない」「コミュニケーションはとりやすい」「私服オーケー」「見た目何でもいいのはよい」「個人の裁量は大きい気がする」「みんな飲み会とかは好きじゃない」「つぶれたら困る」「手とり足取り教えてくれる会社ではない」「自分の仕事は自分の責任で他のひとから構われたりはしない」「言語コミュニケーションが得意なひとはあうと思う」「察してもらえる空気は全くない」「確かに!助けて欲しいときは声をあげないとだめ」「声をあげれば助けてくれる」「ルールがあるとおもって入社すると痛い目にあうと思う」「子連れ出勤可」「ペット出勤も可」「仕事によってはリモートもできるのもいい」「お菓子とかコーヒーとか備え付けがある」「休みがとりやすい」「8時出勤だけどみんな7時59分くらいに出勤する」「みんな副業してるのも面白い」「やりたいことはやろうと思えばだいたいできる」「やることをやれば時間とか場所とか服装とかなんでも」「西粟倉の山を扱える仕事です」「でもこの村のことが好きでたまらなくて来た、みたいな人はいないですね」「仕事しにきている」

株式会社百森 採用ページ

見方によってはそこそこ過激ですが、とても"らしさ"が出ていて誇らしいです。この会社という組織にいるのは決して互いを察する家族ではなく、言葉による契約関係にある個々人である――というのは僕がとても大切にしている価値観です。

でもこうして「空気」が言葉になると、今度は言葉が空気を支配する心配をしなくてはならないなあとも感じています。いや、矛盾しているのは重々承知なんですが。

言葉の強さは何かを抽象化し複雑性を捨象することで得られます。現実というのは一般には人間の認知を遥に超えているので、どうにか理解するための枠組みが必要になります。そこで、言葉というとても便利な道具を使い、操作可能な形にするわけです。

しかし、言葉そのものに向き合いすぎていると、それがあくまでも世界の見方であることを忘れてしまいます。

私はこういう見方をしています、という宣言を互いにすることで、互いの認識を揃えているうちは良いですが、「全員がこういう見方をしなければならない」という形で見方の規定をし始めるとただただ苦しい。ここが人間は面倒なところですね。

そういうところも含めて、言葉の使い方が上手い組織にしたいし、上手い人間になりたい。精進あるのみ。

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