BFC2落選作です。友人に誘われて応募しましたが、時間がなく、推敲ゼロ回という状態で参加してしまい、審査の皆さまには、ご迷惑をお掛けしました。


『カンパチ、セタガヤ界隈』  
                 市川スナオ
秋晴れの日曜日午後。環状八号線を走る紺のBMWセダンが瀬田の交差点の数百メートル手前で、横断歩道の赤信号に停車させられた。ハンドルを握る中年男は、用賀で生まれ育った妻の達ての希望で自由ヶ丘のマンションを三十五年ローンで購入してここ二十年近く住み続け、この界隈を走るには、車はドイツ車じゃないと恥ずかしいという彼女のリクエストにも応じ、もちろん、車中の禁煙も甘んじて受け入れている。 信号が青に変わったのに、生憎、休日午後の環八はお決まりの渋滞で、一向に車列は数珠繋ぎのまま。男は助手席でショッピングのためのトートバッグを膝上に転寝ている妻の向こうの、車窓の路上を苛立ち紛れに眺め、BMWディーラーの店舗が目に留まり、自身の乗っているのと同じ型のBMWが展示されてるのを見つけ、満足感に包まれていると、車列がゆっくり進み出し、千葉ナンバーの古びたワインレッドのホンダ車に割り込まれてしまった。男は一瞬、ムカついたのだが、フロントガラスの向こうのその車がかつて会社員に成りたての独身の頃、自分が乗っていたのと同じ車種と色、しかも同じ千葉ナンバーだと気付いた。途端に、アクセルペダルを踏む右足の下から若い男の声が聞こえた。 
よお、久し振りだな。キミさ、昔は中古のホンダに乗って田舎者の千葉ナンバーのくせに、そんなことを露ほども気にせず、オレの上を堂々と走ってたじゃないか。見込みある若者だと思ってたのによ。それが、今や憧れの世田谷ナンバーのBMWかよ、恐れ入ったな。いつからそんな虚ろな市民に成り下がっちまったんだよ、呆れたね。こちとら、この界隈でオレの上を行き交う数多の高級外車の持ち主の輩には、心底、辟易してるんだよな。ベンツやBMWに乗ってる奴らなんて、ほぼ、皆、下らねえからな。奴らの目を見てりゃ分かるさ、金満っぽいものにしか反応しなくなっちまってる脳の持ち主のまなざしをしててよ。でもって、お顔も造形的にとても不細工か、逆に、整いすぎた俳優業らしい奴とかでさ。奴らの意識を覗いてみると驚くよ。実は、奴ら結構いつも怯えてやがるんだぜ。いくら金があっても寿命は延ばせないからね。このまえなんか、喪服姿でベンツを運転してた中年男なんかよ、故人への弔意なんか微塵も抱いてなくて、ただ、ただ、来たるべきいつかの自身の死だけを漠と心配して不安になってやがったな。 あとさ、あれだよ。シートに埋もれて短い足をなんとか伸ばし、アクセルを踏み込んでポルシェを駆ってる奴らについてはカッコ悪すぎて論外だね。オレの懐はそう寛大でもないから、ああいう奴らを見かけると、事故っちまえってアスファルトを波打たせてやるんだけど、まあ、でも、なかなか簡単には事故らないね。ポルシェはとんでもない値段なだけに足回りはしっかりしてるからな。高級車だけが事故に強いなんて、世界は本当に不条理だね。 そう、そう、あとさ、プジョーだかルノーだか、フランス車に乗ってる奴らは性質が悪いね。奴らときたら、信号待ちのときなんかに、自身の操る車の車影が通りに面したブティックなんかのウインドウに映っているのを決まって横目で追い、悦に入るからな。自身の醜い姿はさて措いてさ。オレは奴らが信号待ちしてるとき、ここはパリじゃないし、あんたはフランス人のように粋じゃないぜ、って、奴らの耳元でいつも囁いてやってるんだけどね。一向に聞こえない振りしてるよね、奴らはさ。 おっと、あとさ、忘れちゃいけないのが、ボルボに乗った奴らだね。彼らは一見、まともだから気を付けたほうがいいな。知的職業に就いてて良識派を装ってるからね。奴らは大抵、丸首の白いセーターなんか着てて銀縁眼鏡を掛けてるね。ハンドルを握ってるときの笑顔なんて徳の高い奉仕的な医師のようだよね。実際、この界隈で開業してる歯医者だったりするんだよな。でも、騙されちゃいけない。奴らほどつまらない人種はないからね。だって、もう、分かるだろ。医者だからボルボに乗らなきゃならないと思う連中なんだぜ、その程度の医者ってことだよ。絶対に誰かを真に癒したりなんかできっこないね。 ああ、でも、でも、もっとも厄介なのは、実は、今、オレが挙げた高級外車を運転する輩じゃないんだ。国産車の持ち主の連中なんだよ。それも低価格の白いボディのセダンとかさ。まあ、ここ世田谷界隈のオレの上では、白い国産車なんか少ないほうだと思うけど、参っちまうのは、連中、日曜の夜になると決まってパパたちが運転する車で家族仲睦まじくオレの沿道にあるファミレスに繰り出し、ブース席でガキたちが不躾に滅茶苦茶騒がしくしてもパパは無言で耐えててよ。このまえもそんなパパたちの一人を見かけたんだけど、ガキたちが煩く騒いでも、眉間に皺寄せてるだけで全く叱らずに放置しててさ。で、思い詰めた表情になってブース席を立ち、電話ボックスみたいなファミレスの喫煙所に向かったもんだから、オレは心配して、煙草を一服してる彼の意識を覗いちまったんだけど、ああ、取り越し苦労だったね。彼の頭ん中を占めていたのは、よく飛ぶゴルフのドライバーが欲しい。そのドライバーで、会社の同僚の前でナイスショットを飛ばしたい、って、なんと、それだけしか考えてなかったんだよな。ああ、情けない。もう、嫌になるね、虚ろな市民たちの増殖ぶりには。 
渋滞の車列がやっとスムースに動き出し、BMWのアクセルペダルを踏み込むと、右足の下から聞こえた若い男のその声が消え去った。その中年男は車からソッコー降りて今直ぐ、無性に煙草を喫いたくなった。   
                   ―了―

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