2009年12月24日

こんなご時世、外に出られず一人飲みしていた、酔っ払いアラサーOLの独り言です。

貯め撮りしていた、ひとモノガタリ「若者のすべて~失われた世代のあなたへ~」と「若者のすべて~フジファブリック・志村正彦がのこしたもの~」を見て、気持ちが爆発しそうになったので唐突にnoteを始めてみました。ブログや日記を書くというのは2012年ぶりです。はや8年。そう思えば私も年をとったものです。

当時、私は大学1年生で、友人とカラオケオールをしていたことをいまでも覚えています。大学に入ってバイトをはじめて、お金を貯めて2010年の富士フジフジQに行くんだ!っていきごんでた時期でした。

彼の訃報を耳にして、一緒にいた友人が引くくらい大騒ぎしました。


中学生の時はじめて「銀河」を聞いて衝撃を受け、それから私はフジファブリックの虜でした。聞き終えたときになぜかもの悲しくなる、だけどキャッチーな歌詞。その時期、全盛だったのはORANGE RANGEや修二と彰で、私は「周りとは違う、音楽をわかっている自分」に酔っているだけだったのかもしれません。それでもそれからもずーっとフジファブリックが好きだったからやっぱり単純に虜になっていました。

銀河のPV、桜の季節のPV。何度見ても不可解な、それでいて引き込まれる。不思議なアーティストです。


いわゆるロキノン系に傾倒していた私ですが、志村を本当に好きになったのは『TEENAGER』の発売のタイミングでした。彼のブログを読んで、「ああ彼は音楽家なんだ」と思い、この人の音楽を聴き続けたいと思ったのです。

だけど、終わりはあっけなく来ました。

2009年12月24日。彼は逝ってしまいました。死因が公表されなかったためいろいろな憶測が流れました。私はどんな理由であったとしても、関係ないなと思っていました。そしてそれは今も思っています。死因を検索したら自殺説が出てくるけど、自殺でもそうじゃなくてもなんだっていいな。と思えるのが私にとっての志村の死なのです。

それから、B面集を買ってシングルコレクションを買って。そして私のフジファブ生活は終わりました。

怖くて聞けませんでした。志村のいないフジを受け止められなかったのです。それは、今でも同じです。3人で頑張ってることを知っていても。彼らが志村を立てていることを知っていても。楽曲もラジオもなにも聴けていません。

時は流れ2019年10月。私は新卒から勤めた部署から東京に異動になりました。そして今日。志村が上京してから住んでいたのは高円寺だと知りました。下北沢でなく、高円寺だったのです

このコロナ騒ぎが終わったらロサンゼルスクラブに行ってみようと思いました。


何度聞いても、上手な歌声だとは思えません。何度聞いても、奥が深いとは思えません。それでも何度でも何度でも聞きたくなるのが志村のいたフジファブリックの曲なのです。

酔っ払いながら、金曜ロードショーの撮りだめを見ながら書いたアラサーのつぶやきはこれにて終わり。


次回からはもう少し皆様のためになるお話ができれば良いなと思います。

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