ライ麦畑より、祈りを込めて

クソッタレのAIは人が人足り得る条件を破壊してゆくし、カスみたいな資本主義は嘘くさい善人面でぼくたちを覆っている。
その果てに何が起きるかなんて想像もせずに思考停止する進歩主義者のアホ面どもも、薄汚い欲望のために余所行きの綺麗事を慣れた手つきで並べ立てるインチキ野郎どもも。
ついでに効率主義の軽薄な嘘つき野郎どもも。
なにもかも、うんざりだった。
とにかくもう田舎に帰って、そんでもって土にでも還ってしまいたいくらいには最悪でクソッタレな気分だった。

「ライ麦畑でつかまえて」みたいな文体だ。まさしくそれを読んだばかりだからだ。
高校の時には響かなかったそれが、今の自分にぴったり響いたわけだ。

子供から大人への変化は不可逆だとは言うけれど、ぼくの場合はどうやらその限りじゃなかったようだ。
もしくは、高校生のぼくがあまりにも不感症だったのか。
とはいえ子供という状態が、新しい世界で必死にもがいている状態を指すのだとしたら、ぼくはまさしくとびきりに未熟な子供だろう。

この一年間で、ぼくは一冊の長編小説を書き上げた。
クソッタレな世界が、そして書き上げた時のぼく自身が、少しでもましになるようにという祈りを込めて。
が、実際は逆だった。
ぼくは自分が想像するよりもクソッタレだったし、クソッタレな世界はもっとクソッタレな世界だったと気付いた。
小説を書くという行為は、自分自身の内側へと、自分の血の匂いを嗅ぎながらにじり寄る作業だ。
そうして得たものがこんなにもクソッタレなものだったということに、ひどくがっかりした。
失望したと言っても良いかもしれない。
何もかも投げ出してしまいたかった。
でも、投げ出すようなものなんか手元にはなかった。
そう思えることはある意味では不幸かもしれないけれど、幸福ともいえるだろうな。
とにかく言いたかったのはこの一年、ひいてはそれまで積み重なった経験と知識の層がぼくを「BOOKS GIVE YOU A BETTER PERSPECTIVE」よろしくそれまでと違った世界に誘ったということだ。

さて、ぼくがこれからどうするかなんて分からないし、寧ろ誰かに命令して欲しいくらいだ。
「さあ、これからはこれこれの本を書きなさい」とか、「一冊書いたのだから満足したでしょう。これからは労働者一本で生きなさい」とか。
そうしてくれたなら、丁寧に悪態をついて、丁重にお断りするだろう。
「うるせーな」とか、「俺の生き方を勝手に決めるな」とかね。
だからこんな時間までうじうじと途方に暮れているわけだ。

でもこれだけは、ということはある。
ぼくが世界へ感じる理不尽や悲しみや憎しみにはとことん向き合おうと言うことだ。
これがぼく自身を不眠と惨めさに陥れている原因ではあるのだけれど。
でもそれを忘れてしまったらクソッタレなシステムの一部になってしまう気がするし、それは最終的には、一番自分を苦しめるような気もする。
それに無視しようとして無視できるようなものでもないんだな。
何せこの一年、その感情だけで13万文字も書き上げてきたのだから。
もう二度と本なんて書かないぞって気持ちがあれば、一方でノートには既にいくつかの構想をまとめてもいる。
素晴らしい本を読んだ後には勇気付けられるし、一方で自信を失いもする。
常にあらゆる矛盾、二律背反を抱えては今にも分裂しちまいそうなわけ。

ともかく、ぼくが世界に対して抱く感情には、ぼくはインチキしないぞってこと。
そうして世界が、そしてぼく自身が、今よりもましになるように祈りを捧げるんだ。
時々泣きそうになるくらい、素敵なものと出会えるわけだからね。

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