広がる世界、均される世界

少し高くなった空。
間断なく続く祭囃子の音に子供らのはしゃぐ声が混じる。
微かに漂ってくるソースやカステラの香ばしい匂い。
半袖を着るには肌寒く、長袖を着るには少し暑い。
自分にとって祭りとは、夏というよりは秋を感じる風物詩だった。
不意に行き当たった喧騒は、「慣れ親しんだ」というよりは「懐かしい」という感覚を去来させた。
思えば祭りというものに訪れたのは4,5年ぶりだった気がするが、それはコロナのせいだけではないだろう。
そもそも祭りとは自分にとって必須というほど切実な行事というものではなかった。
それは祭りの本来の意味を噛み締めるほどに信仰心を持ってはいなかったからだろうし、その行事に関わらなければならないほど地域の人間関係がなかったからだとも言える。
そしてこの感覚や状況はきっと自分だけものではないはずだろう。

近代的な資本主義のうねりの中で世界は以前よりも広がった。
それに伴って地域に根ざした信仰や人間関係が果たしてきた役割は、金銭という揺るがない(と思われている)ものに取って代わった。
役割を失った地域の文化とも言えるそれらは、それまでの重要性を失い、娯楽以上の意味を持たない形骸と化した。
そうなればそれを動かす論理は商業主義にすり替わり、それは地域もまた世界を動かす資本主義の論理に引き摺り込まれることと同義だった。
一度資本主義の大海に飲まれればその濁流とも言える流れの中で、精神性はまず物理的に均されることになる。
移住者や訪問者の需要と供給の間に起こる化学反応が暴力となって地域の文化を蹂躙する。
判を押したような建築が並び、チェーン店が展開され、インスタントに消費される娯楽が降り注ぐ。
地域に根ざした精神性は殆どが更地になる。
そこに本来的な意味の多様性などなく、どこにでもある平均的な景観と文化のみ。
悪意がそれを成したわけではない。
それを成したのは、冷徹なまでに超然とした資本主義の論理だ。
無慈悲なその論理の中に個人の意思は介在する隙もなく、もはや起源すらもわからなくなった歯車の連なりの一部として、誰もが皆駆動され、駆動する。
それが人の営みであると割り切ることは簡単だが、あまりにも寂しく、悲しい考え方であるとも思う。
だからといってどうすればいいかもわからず、歯車の一つとして堂々巡りをしている自分を自覚する。
いつの間にか聞こえなくなった祭囃子と子供の声を後ろにして。

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