光

「沈黙-サイレンス-」を観て

鑑賞直後に抱いた感想としては、「なんで人には信仰が必要になったのだろう」ということ。
もっとも救ってほしいときに神は沈黙しているのに、それでもなお神を、その宗教を信仰しているのは何故なのだろうという問いが浮かんだ。

そして、なぜか「無」について考えた。
信仰そのものもだが、私たちは「無い」ということに耐えられないのではないかと思い至った。
信仰は人間社会に必要不可欠な秩序の起源だとのちにわかったのだが、なぜ宗教には物語が存在するのかも含めて、私たち人間はストーリーが無いことに耐えられないのではないのだろうか。

ストーリーというのは「答え」でもあるかもしれない。
そう考えると、この映画には答えが無い。いや、言いかえると無いという答えは在る。
私たち一人ひとりが、それぞれの方法で、何らかの踏み絵に行き当たり、そしてそれを踏むのか、踏まないのかの場面にいずれ直面するだろう。
しかし、その答えが正しい答えなのかは映画の中では曖昧だった。
そして、ふと気づく。
現実社会もこのように、正しい答えが存在しているわけでなく、そのときの状況に応じて判断しているだけかもしれないことに。
ほんとうの答えが見えない不安に、私はおののいてしまった。

答えや真実が無いことは自由なわけでなく、不安をかき立てるのだ。
そしていつも結論が出ることばかりでなく、結論のない闇はいつも口を開けて待っている。
それは、映画で井上筑後守が言っていたのように。

私たちは自由なんかではなく、何かにすがったり、寄り添ったりして、存在すべき理由を探し求めている。
生きている限り、「無」から解放されることはない。少なくとも自分はそうだ。それを知ったことが怖かった。

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