見出し画像

あそびのある人、ない人

ハンドルやブレーキにあそびがある、ないという表現があるが、これは「遊ぶ」という意味合いではなく、ちょっとした「ゆとり」「隙間」という意味で使う。

古代の人たちは、「あそび」の「あそ」を空っぽのぼんやりした状態を表す語として使っていたと、国文学者の中西進氏の著書で読んだが、「ハンドルのあそび」なんかは、ぼんやりした部分を残すという意味では、古語にのっとった正しい使い方になっていると言えよう。

工学的にも遊びは必要不可欠なはずだが、人間にだってこの「遊び」の部分が、結構物を言うのではないかなと思う。

そういう意味で全く冗談が通じない人がいる。
あ、ウケを狙って言うジョークという意味ではなく、話の流れの中に生まれるちょっとした「ゆとり」や「隙間」のことで、要するにスキのない会話をしようとする態度というのだろうか。
別に深刻な話をしているわけじゃなく、しかもスキあらば一撃で刺されるワケでもないのに、どうも会話をしていてスキを見せないよう、見せないよう防御する人がいる。


何でなんだろ?
何から自分を守ろうとしているのだろう?

自分を防御しようとする力が働くためか、逆に攻撃的になり、こちらを馬鹿にしたような言い方になっている場合が多く、そういう人と話し終えると何となくイライラ感が残る。

たぶん、相手は気を使いすぎてるだけなんだろうが、気を使うっていうのはうまく使えないと、結果として逆の印象を与えかねないし、相手を疲弊させるだけに終わってしまうことがある。
気を使ってるわりには、独りよがりなだけ、みたいな。

人間工学的にも「遊び」って重要だよね。
ちなみに「遊ぶ」っていうのは空っぽの状態を指すので、それはトランス状態のことでもあるらしい。
トランスになれるほど遊べる人は、たぶん仕事だってトランス状態でやれたりするんじゃないだろうか。

ほんとに遊べる人っていうのは、仕事でも遊べる人なのかもしれない。
などと、仕事をせずに完全遊びでこんなことを書いている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?