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『その2』三閉伊一揆

その1はこちら

佐々木弥五兵衛

1847年11月20日遠野へ向けて進軍
南部藩の家老膳所をすると、米を渡したもののこれは南部藩の一時凌ぎ
やがて、藩の刺客に捕えられ、その後打首となってしまう。

ここだけをみると、一気は成功裏となってはいるが、
成功と言っていいのかは疑問です。

その後の南部藩

弥五兵衛の一揆の後も税を取り立てる役人を増やし
色々なものに税をかけ農民は苦しくなるばかり
漁師にも舟税を取り立てるほどに。

そして、南部藩に直訴する道を諦め
仙台藩にその訴えを起こす戦略を練ります

畠山太助

らを先導とする2千人が決起。代官所などを襲い南下して仙台領を目指し南下。

太助らは仙台藩の役人に書状を差し出し、政治を改めるよう申し入れを行いました。
仙台藩は南部藩に申し入れをするも聞き流し。

太助はさらなる一揆を決意し、
仙台藩へ向かう一揆群と南部藩とで戦いが勃発します

結局南部藩は一揆を抑えることができず、仙台藩へ強訴が届き
それが、江戸幕府へともたらされます

畠山太助自身は、この後自害してしまいます

南部藩は藩政改革に着手し貧しい村の様子を調べ
救う手立てをとっていった。

ここまでが、大まかな三閉伊一揆の流れであります
佐々木弥五兵衛は処刑
三浦命助は獄死
畠山太助は自害

これだけ優れた指導者を失ってしまって
成功を喜んでいいのでしょうか・・・?
もちろん、藩政改革が行われたことについては
本当に良かった。ということは間違いないものの。

しかも、変わったきっかけは確かに一揆がきっかけなのは間違いないが
仙台藩と江戸幕府が関わってようやく変わった変わらざるをえなかった
と言う意味合いが強いと思いますが どうでしょうか?

今後は、三閉伊一揆と現代 を 読みながら
もう少し、掘り下げていこうかと思っています。

本当に遠いよ。。。

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