三閉伊一揆

はじめに


をふと、考えてみた?日本の一揆で何かが変わったことってあるのか?
そもそも、一揆とは住む領主の政策になんらかの不具合があって
その政策に反対した結果、武力行使や実力行使するしかないくらい
追い込まれた民衆たちの行動の結果と記録だと思うのだけど
日本は大概の場合、為政者側の戦勝の記録でしかないのではないか?
という疑問を持ちました

しかし、その政策に不満を持った民衆が一揆に訴えて
望んだ結果を得られたって、正直ほとんど聞いたことがない

とはいえ、私は学者ではないので、調べられることなどには
限界がありますが、可能な限り調べてまとめて行きたい
と思って執筆を始めようと思いました

きっかけ

きっかけはこのツイート。達増岩手県知事のこの書き込みです
日本人が為政者側に立って物事を見がちというのは少し前から思っていたことですが、
自由民権運動を先取りしているらしい ということで 三閉伊一揆というものに
興味が湧きました


三閉伊一揆の始まり


で、一応調べてみました
以下引用 ウィキペディア

Wikipedia
三閉伊一揆より

Wikipediaにはこのようにあり、やはりというかなんというか
重税と悪政による一揆だったようです

そもそも、南部藩は恩賞が見込めない防衛に駆り出され
褒章がないわけにもいかず、表高(実質恩賞なし)な20万石を加増され
その増えた分の兵役を課された結果、税をあげ、メンツを保とうとしたことが
きっかけと言えるのかもしれません

目安箱も結局意味をなさず、政策は転換されず
一揆になったのは、こういったやむに止まれない事情からだったようですね

三閉伊一揆の規模

Wikipedia
三閉伊一揆より

三閉伊一揆は 当時南部領の人口35万人・三閉伊通りの人口約6万人のうち
参加者が1万6千人ほどと、かなり大きな一揆だったようで
南部領の約4.5% 三閉伊通りの26%が参加したので
規模の大きさがわかります

これを見るだけでも、かなり大規模な一揆だったことは容易に想像できます
今の日本人にはあまりピンと来ないかもしれませんが
私の住む地方の新発田市が令和2年度で9.4万人余りなので
その26%というと、約24440人くらい参加した計算になります

というと、かなり大きい一揆ですね

ただ、この三閉伊一揆は政治的要求が高いレベルで行われていたようで
参加者の家族のその後の事を村単位で支えていくことを約束し
指導者の談合で行動を計画し、参加した民衆はその指示に従って行動する
という、一揆というよりデモに近い韻書も持ちましたが、武器などを持ってたようなのでやっぱり一揆でさね

三閉伊一揆の始まり

詳しくは下記も参照してください

田野畑村 三閉伊と呼ばれる地域は自然環境が厳しく
生きていくことさえも困難な環境の中
南部藩は次々に増税を課し、民衆を追い込んでいきます

佐々木弥五兵衛

朝日日本歴史人物辞典より

上層百姓出身の弥五兵衛は、作柄調査の上、年貢減免願書を作成
1847年11月20日立ちあがります
総勢1万を超える農民集団は下閉伊地方から遠野へ進出し
家老に善処を認めさせたが、弥五兵衛はその後南部藩に捕えられ斬首される

三閉伊から遠野までのおおよその距離

宮古を通ってと言うので
おそらくこのルートだったのではないか?

遠いな・・・このルートだと思われます


第1回最後に

ここまでお読みいただきありがとうございました
次回は、畠山太助と仙台藩・江戸幕府と一揆の訴えは
かなったのか?です

でも、最後は捕えられ斬首はキツすぎるだろ
一揆は民衆の生活を守るために命を投げ出した人たちの記録なのだろう

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