同性カップルの代理母出産について思うこと。

前回の東京オリンピックの際に、私はトーマス・デーリーという素敵なアスリートを知りました。

東京オリンピックでは10m高飛び込みシンクロ金メダル(ソロでは銅メダル)の栄冠を勝ち取った実績もさることながら、ビジュアルもキュート、何よりも大の「編み物フリーク」というところで、私(実は編み物大好き人間)は一気にこの選手が大好きになりました。

インスタも即フォローしました。彼が、オリンピックのタトゥーを披露したり、金メダル入れを編む彼の姿に和んだりしていました。

程なくして彼がゲイ?であり(本人はクィア?と公言)、既に同性パートナーがいることも知りました。私が好きになる著名人、なぜかそういう人が多い…

それはそれとして、トムはパートナーであるダスティン・ランス・ブラックとの間に、代理母出産によって2018年に生まれた一人の男児がいます。

正直、ここについてモヤッとしたものを抱いていました。
当然のことながら、男性同士のカップルが生物学的に子どもを持つことは不可能で、自分たちの遺伝子を持つ子どもを持ちたいという願望がある以上代理母出産を経なければならない。

私個人としては代理母出産には否定的、というかハッキリ言って反対の立場です。
これについて細かいことはまた別の機会に書くとして、とにかく微妙な感情を抱いた、いや今も抱いているのは間違いありません。


そこに更に、今朝、「トムとダスティンの間に第二子」の報が飛び込んできたのです。

祝福に満ち溢れるコメント欄。
しかし辿っていくと中には、
"There are lots of children you could have adopted"(養子をうけいれることもできたよね)
と、代理母出産への懐疑的なコメントがあります。
それに対する批判的なコメントが20件ほど寄せられていました。正直私はその反応に驚きました。

"do you say same to straight couples?"(ストレートカップルに同じこと言える?)
"not everyone wants other people's kids and that's OK"(みんながみんな他人の子欲しい訳じゃないからいいんだよ)
"how many children have you adopted?"(あなたは何人養子を受け入れたの?)
などなど、辛辣なものばかり。
「同性カップルの代理母出産に対する懐疑」を呈するだけでこんなにぶっ叩かれなきゃいけないのか、と(少なくともインスタ界では)正直少し驚きました。確かに本人にコメントしてしまうデリカシーとしてはどうなのと言われればそれまでですが…

一方、Twitterやオンライン新聞記事のコメントでは、この2回目の代理母出産に対して比較的否定的な意見が多い。
SNSによって反応が違うのも、興味深いところです。

国や文化的な考えの違いもあるのかもしれないけれど、やはり生物学的男性同士でこどもを設けることが不可能な以上、「子どもが生まれました!」「おめでとう!」となる飛躍に違和感を覚えざるを得ない。子供が生まれた!となれば「ママは誰?」がまず先なのではないでしょうか?
なぜそこをすっ飛ばして手放しに祝福できるのか。私にはその感覚がちょっと理解し難い。
欧米ではそれだけ既に代理母は一般的なのでしょうか?

「なぜ養子を受け入れないの?」という疑問の根底には、代理母不在での祝福に対する懐疑があります。
同性カップルのみならず、自分の体が傷つくことを忌避するセレブが代理母出産で子を授かるのもメジャーなんでしょうか?

同性カップルやセレブが代理母出産で生まれた子を抱く時、私は十月十日、お腹で赤ちゃんを育て、命がけで産み、赤ちゃんを手放す女性の姿に想いを馳せずにはいられません。
確かに、お金のため、ということもあるでしょう。お金を払って子どもを授かる人がいる一方、お腹を貸してお金をもらう人がいる。
こと人の命の誕生において、それは健全なことなのか、当たり前のことなのか。

ちなみに、「子どもに恵まれないストレートのカップルにもそれ言えるか?」に関しては、私はYesと答えます。不妊治療の末、どうしても子を授かることができなかった夫婦が養子を受け入れるのは全然アリだと思っています。
問題は、お金の力で、他人の体を占拠してまで「自分の遺伝子を持った子どもが欲しい」という希望は叶えられるべきなのか?ということなのです。

代理母への心理的肉体的苦痛もさることながら、更に配慮すべきは、生まれた子ども自身の発達や心理的影響です。

子はやがて性や自我に目覚めます。男同士で生物学的に子どもを設けることが不可能と知った時、親が両方とも男性であった場合、自分の生物学的母はどこにいて、どのような経過を経て今自分はここにいるのかというルーツについて考え始めるのは必然ではないでしょうか。

本来の生物的摂理を超えて自分たちの想いを実現させようとする時、一人の人間の成長にどれだけの影響を与えるか、ということにも想像力を巡らせるべきでしょう。

性自認の肯定、自己実現、抑圧からの解放、自分らしく生きられる社会も大変結構ですが、生まれてきた子どもたち、これから生まれてくる子どもたちにもその権利があることは言わずもがなです。
子どもは自分の出自や親を選ぶことができません。だからこそ、大人たちは社会の中で責任を持って子どもを守っていかなければならないのです。
子どもたちが幸せに暮らせる社会であることが大前提だと思います。


チョコレートドーナツという映画があります。

家族の形にはいろいろあることを知りました。こういう形の家族があってもいいんじゃないか、と私はこの映画を観て思いました。
実際、両親に恵まれず同性カップルの養子になること自体を私は否定はしません。別に積極的に推進することもありませんが。
誰にでも家族と幸せになる権利はある。

しかし、それは別の女性の体を犠牲にすることも権利に含まれるのでしょうか?男性同士のカップルに子供が生まれないことは幸福を希求する権利の侵害なのでしょうか?お金を払えばなんでもOKなのでしょうか?
倫理的、経済的、宗教的色んな側面から考えなきゃいけないことだと思います。

多少強い表現になりますが、代理母出産に立ち会ったゲイカップルが、赤ちゃんが出てくる時、性器の脱毛がされてなくてグロテスクだったとか、代理母出産のハードルがもっと下がればいいだとかいうセリフを吐いているのを見ると、えも言われぬ怒りを覚えます。
そういう言説に触れるたび「ああやっぱりこの人たちに女性の子宮を貸すべきでない」という気持ちになります。
だって女性がどれだけ大変な思いをして子どもを生んでいるかも分からないみたいなんですもの。自分たちだってお母さんのお腹から生まれてきたというのに。

同性カップルが代理母出産を経て子を持つことへの懐疑というか懸念をまとまりなく書いてみました。
今後考えが変わるかもわかりませんが思考の整理として残します。

これは単なる私の老婆心で、彼ら(トーマスとダスティン)はしっかりと育児をやっているのでしょう。大きなお世話かもしれません。お節介おばさんの杞憂に終わればそれに越したことはありません。



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