長文感想5600文字!「君たちはどう生きるか」は人類に成熟をもたらそうと試みる宮崎駿の映画
「君たちはどう生きるか」は、13歳くらいの少年が深層意識下で成熟を果たすまでの物語。
成熟とは?という問いかけに対して、宮崎駿が出す「答え」というほど単純なものではない、その複雑な「道すじ」を示した映画なのだろうなと感じました。
冒頭、少年眞人を取り巻く環境が描かれます。
炎に包まれる母は眞人の深いトラウマであり、父の再婚にも納得いかない様子です。
地の力の陰面(権力志向)が強く出ている父への嫌悪感を眞人は露わにしています。
父の再婚相手である夏子とも殆ど口を利きません。
さらに自分で自分に石で傷を作ります。
しかしそれを自分がやったことだと周りの大人には言い出せない、精神的に幼い様子の眞人が描かれます。
さて、とにかくこの映画は象徴(シンボル)だらけです。
宮崎駿映画は千と千尋以降象徴だらけですが、
まず前提として、地・火・水・風、それぞれの力を宮崎駿は象徴的に描きます。
宮崎駿のホロスコープを見てみると、地と火のエレメントがたくさんあり、水と風のエレメントがゼロであることがわかります。(持論なのですが、エレメントが無い部分に憧れが宿ると私は思っています。)
宮崎駿の場合は水と風がゼロなので、水と風を神聖視した物語が多いです。
水と風の陰の面を描いた物語がほとんどありません。
代わりに、地と火は大変リアルでその陰の面が強く描かれます。
地の陰の面は「権力」「ドロドロした塊」、陽の面は「積み重ね」「努力」といったイメージです。
火の陰の面は「巨神兵」「武器」、陽の面は「生活のための火」「かまどの火」といったイメージです。
それが今回の「君たちがどう生きるか」で水と風の陰の面がいつもよりハッキリと描かれていて驚きました。
話を戻します。
眞人の課題は幼さを手放すことです。
「母の死というトラウマ」「自分でつけた傷」「夏子との和解」、この3つが眞人の課題として象徴的に描かれたあと、アオサギが現れます。
水と風を象徴するアオサギ。
はじめは美しく水面を飛んでいましたが、それが突然醜く歪み「塔」へ来いと眞人を誘います。
塔は、これまで眞人が積み上げてきたものの象徴です。
眞人の幼児的全能感の象徴でもあります。
でもそれだけではく、塔は個人的無意識、集合的無意識へと通じる入り口でもあります。
あの塔が出てきた瞬間、最後きっと崩れるだろうなと思いながら見ていました。
※以降、ユングの「意識」「個人的無意識」「集合的無意識」をググってから読んで頂くと、ここからのお話はより分かりやすくなるかと思います。
さて、塔へ誘うアオサギは、宮崎駿の憧れの要素(水と風)を反映していますが、
眞人の個人的無意識から生まれた「影」の要素も併せ持ちます。1つのキャラクターにメタファーをぶち込みまくってますね。
「影」は深層意識への1人目の案内人です。
眞人はこの己の影であるアオサギを統合するために塔へと向かうことになります。
が、そんな統合のプロセスであるということは無意識からの欲望ですので、眞人は気づいていません。「塔に行くのは夏子を取り戻すため」と意識的な眞人は言っています。
ここで第1の試練がやってきます。
アオサギ(影)との正面衝突です。
アオサギは、初めはひどく陰の面が強いです。
嫌なやつ、怖いやつ、ホラーテイストに描かれています。
「お前の憧れはハリボテだ」と眞人に告げるかのように、美しいアオサギはみるみる醜いおじさんの姿になります。
そして、水のハリボテで創った母親らしきものをを眞人に見せつけ、眞人の怒りを煽ります。
眞人はアオサギに矢を放ちます。
弱点である風切りの7番をつけた矢です。
しかし眞人は怒りに任せてアオサギを殺したりはしません。
くちばしに穴を開けただけです。
眞人はアオサギ(影)の醜さを認めたのです。
このシーンで、眞人はハリボテはハリボテであると認められる心の持ち主であることが象徴されます。
アオサギを殺していれば、成熟への道は閉ざされていたでしょう。幼児的万能感を抱えたままの醜い大人になっていたかもしれませんね。
己の醜さを認めた者にしか、無意識層への道は開かれないという成熟のお約束みたいなものがここで示されています。
第1の試練を乗り越えた眞人はスタート地点に立ちました。
そしてこのスタート地点で一瞬だけ現れる「集合的無意識の老賢者(大叔父)」が眞人に潜る決断をさせます。
1人目の案内人であるアオサギと共に眞人は深層意識へ潜ります。(キリコさんも一緒だけど、キリコさんの考察はのちほど。)
潜った眞人が最初にやってきたのは個人的無意識の層です。
潜るとすぐ第2の試練がすぐ始まります。
第2の試練は「死」への穴です。
ペリカンがドっと押し寄せて眞人は「死」の門を開いてしまいます。
深層意識へと潜った者の末路は3つしかありません。
①死か(個人的無意識層でとどまる)
②狂うか(集合的無意識層でとどまる)
③成熟するか(深層意識からの脱出)
です。
恐らくあのまま穴へと入れば現実の眞人も死んでいただろうと思います(自殺がイメージされますね)。
さらに眞人があの穴へ入ると、眞人の影(アオサギ)がペリカンへと変わるのだろうなと思います。
ペリカンはかつて「個人的無意識の層」へやってきた人々の影です。
「本人」は自殺してしまったので、影(ペリカン)だけが残されました。
ペリカンがアオサギの羽に弱いのもそれを象徴しているかのように思えます。
後々ペリカンは「我々はこの層から出ようとしても出られない」と眞人に語ります。
第2の試練である、死の穴の周りをうろうろしていた眞人の元に新たな案内人が現れます。キリコさんです。
キリコさんは火の陽面(生活のための火)の力を使います。
魚をとり、殺生をし、「生活」をしている者の象徴です。
さらに眞人と同じ傷を持っているため、眞人の課題である「自分でつけた傷」も象徴されています。
2人目の案内人は眞人の知人の姿で現れました。
ここで出会ったキリコさんは、眞人が生み出したものです。きっとこれまで「善なるもの」や「生活」みたいなものを、眞人に教え、与えてくれた人たちの集合体でしょう。
眞人はキリコさんの家で、守られてきたことを知ります。
たくさんのお婆ちゃんたちの人形がそれを象徴しています。
これまで自分を守ってくれていた善なるものたちに気付く。
別の命を食べ、生きているのだということに気付く。
新しく生まれる命たち(わらわら)を見送る。
気づきのプロセスが静かに優しく描かれます。
さらにそこでペリカンから火を使って「わらわら」を守るヒミの存在を知ります。
眞人はここで火の陰面(強すぎる火は命たちを奪う)も知ります。
これらの気づきを得た眞人は、第2の試練である死を乗り越えます。
自己理解が進み、課題の1つであった「自分でつけた傷」もここで解決します。
乗り越えたところで、アオサギ(影)がやってきます。
キリコの家でこれらのことに気づいた眞人はペリカンと正面から対峙できるようになります。ペリカンの話を聞き、アオサギと共にその死を弔います。
さらにここからアオサギ(影)との和解も進みます。
アオサギのくちばしの穴を塞ぐ眞人。
憧れの象徴であったアオサギは以前のような美しい姿では飛べませんが、
虫のようにプーンと飛べるようになり、眞人に少し協力的になります。
アオサギ(影)の協力を得て、眞人は集合的無意識の層へと進んでいきます。
残っている課題は「母の死というトラウマ」「夏子との和解」という他者理解ですね。
集合的無意識の層は、「個人では経験しえぬもの」の集合なので、個人的無意識層とは質が違います。
ちなみにこの映画での集合的無意識の層にはインコがたくさん出てきます。
ペリカンが個人的無意識に取り残された影であるのと同じく、恐らくインコは集合的無意識で取り残された影なのだと思います。
インコは眞人をひたすら殺そうと追いかけてきます。
そんなインコを焼き払ったのは第3の案内人ヒミでした。
「グレートマザー」の陽面を象徴するかのような案内人で、眞人の実母(若かりし頃)の姿をしています。
ヒミが陽面ということは。夏子はグレートマザーの陰面を象徴しているのかなと思いながら見ていました。
案内人のヒミは、夏子の元へと案内してくれます。
これまで、水、風、火の陰陽面が出てきていましたが、ここにきて地の象徴である「石」が出てきます。石は宇宙であり、世界であり、権力であり、全ての美しいものと醜いものの集合体として描かれます。
自己理解が進み、自分だけの世界、個人的無意識の世界を飛び出した眞人は他者と出会います。
夏子は何を考えているのだろうか?
という問いが眞人の中に浮かびます。
映画冒頭では夏子を拒絶し、心を閉ざし、口を利かなかった眞人でしたが、夏子に自ら話しかけます。
そして「夏子はきっとこう考えているだろう」と眞人は考えます。
「夏子は自分のことが大嫌いだ!」と。
しかし本当にそれだけなのだろうか?それだけが夏子の本当の姿なのだろうか?
きっとそうではないという希望のかけらのようなものが夏子から漂い、眞人はそれをキャッチします。
しかし他者理解は自己理解ほど容易ではありません。
夏子を取り巻く紙のようなものに次々と眞人は襲われます。
紙が肌につくと、眞人の皮膚はべりべりと剥がれます。
他者から拒絶される、拒絶されるかもしれないという痛みを象徴しているシーンでしょうか。
眞人は吹き飛び、案内人ヒミと共に気絶します。
気絶したところで、眞人は大叔父に出会います。
大叔父は集合的無意識層にいる「オールドワイズマン」の陽面の象徴です。
大叔父のところにあったのは「白く美しい積み石(この世美しさの積み重ね)=地の陽面」と、「赤黒い醜い岩の塊(この世の醜さの積み重ね)=地の陰面」です。
これらは他者、社会、歴史といったものの集合を象徴しています。
個人では経験しえぬものの集合。
そしてそれらを伝えようとしてくれるのが大叔父です。
さらに、一見美しい積み石を積んでゆく大叔父には別のメタファーもぶち込まれています。クリエイター宮崎駿自身です。
積み重ねているのは彼が作った作品、アニメーション映画たち。
宮崎駿が監督したオリジナル作品は13本。積み石も13。
その積み石たちは一見美しいが、裏があると眞人は見抜きます。
大叔父は「それを見抜けるものに跡を継いでほしい」と告げます。
目が覚めた眞人は、インコに捕まっていました。
そんな眞人を救ったのはアオサギ(影)です。
インコたちに捕えられたヒミを助け出すために、アオサギと共に塔を登ってゆく眞人。
そこでインコ大王に道を阻まれます。
インコ大王は「オールドワイズマン」の陰面を象徴しています。
権力、支配といった面が強く出ています。
大叔父に会うための道がインコ大王によってバラバラに崩されますが、眞人は諦めません。
そして第3の試練がやってきます。
大叔父のところまで登り詰めた眞人。
積み石は13個あるので自分の跡を継ぐように大叔父から問われます。
恐らくあそこで眞人が「YES」と言えば、眞人は消えて、アオサギはインコになっていたかもしれません。
インコ大王(大いなる権力)のもとで愚かにコントロールされるインコ。インコはかつて集合的無意識層で敗北した者たちを象徴しています。
自己を無くし、インコ大王にコントロールされるだけの元人間。
深層意識へと潜った者の末路は、
①死か(個人的無意識層でとどまる)
②狂うか(集合的無意識層でとどまる)
③成熟するか(深層意識からの脱出)
なのです。
眞人は老賢者に「NO」を告げます。
集合的無意識に在る「誰かの物語」に服従して、己を無くすのではなく、己の積み石は己で探すと眞人は決めたのです。
と同時に、インコ大王は大叔父の積み石を一刀両断します。
そう決めた眞人に、「母の死というトラウマ」「夏子との和解」それぞれの問題の解決が一気にもたらされます。
一見唐突ですが、成熟を果たすと言うのは、思考を変える、見方を変える、これまでの自分のものの見方ではなくなるということです。なぜ今まで自分はそんなものの見方をしていたのだろうか?と不思議に思い、己を恥じることが成熟なのです。
塔が崩壊し始め、眞人は塔で得たものたち(アオサギ、ヒミ、夏子、キリコ人形、積み石のカケラ)とそこを脱出します。
現実世界へと戻ってきた眞人は、アオサギ(影)との統合を果たします。
第1〜3の試練を乗り越え、成熟する13歳の眞人の姿が描かれます。
おしまい。
「君たちはどう生きるか」は、崖の上のポニョよりも統合の道すじがさらに分かりやすくなっていた気がします。
千と千尋の神隠し以降の宮崎駿映画はひたすら子どもから大人になる方法、身体的ではなく精神的な意味での「成熟」のプロセスを描こうとしています。
13歳頃から22歳頃まではアドレッセンス(思春期)と呼ばれる時期で、幼児的万能感を手放し、成熟へのプロセスを辿る時期です。
成熟のプロセスは一方通行で不可逆的です。
幼児的万能感の喪失には痛みが伴います。
これまで積み上げてきた自分を壊すことになるからです。
しかし、自分で自分の成熟を統御することはできません。
「こういう自分になるぞ!」と目標設定して、そこに向かって努力するというプロセスは「成熟」のプロセスではありません。
成熟のプロセスは目に見えるものではなく、決まった形もありません。
成熟するというのは「今の自分とは別の自分になること」です。
だからこそ、このプロセスはさまざまな形でもって語られるのです。
「大人に脱皮することの苦しみ」を癒やし、支援するために、太古から人類は「喪失の物語」をくりかえし語ってきました。
「今のあなたの苦しみは、すべての先人が通過した、そういう類的な苦しみだよ」ということを聴き知らされることで、少年少女はその喪失の痛みに少しだけ耐えられるようになります。
宮沢賢治も、夏目漱石も、宮崎駿も、人類に繰り返し繰り返し読まれる物語は、人類に成熟をもたらそうとする物語なのだと思います。
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