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スカーレット

 「ちゃんと言葉にしないと伝わらないよ」

 言葉にしなかったがために、すれ違う主人公と想い人。
よくある創作のテンプレ。
でも、現実世界でもよくあること。
恋人だけでなく、友人や家族も。
だから、私は、なるべく言葉で伝えるようにしている。
ときには誤解を招くこともあり、黙っていたほうがいいかと思うこともあるが、伝えるようにしている。
「ありがとう」
「好きだよ」
「がんばったね」
「ごめんね」
「○○がいてくれて良かった」
伝えることは大切だと思う。

 しかし、果たしてそれがすべてだろうか。

 『スカーレット』は、そのきちんと言葉にする大切さと、描かなくても伝えられる丁寧な感情の積み重ねがある。
よく、大事なところは◯年後となって、とばされているドラマでもある。
でも、とばしていても全く問題がないほど丁寧に描いている。
だから、とばしていたところで、その場面の登場人物たちはどんな会話をしたのか想像することができる。
そこには余白がある。
その余白は味わい深いものなのだ。
大切な場面であるほど描かないという、視聴者であるこちらが試されている気もしないでもないが。

 淋しさを表現するとき、淋しいというのは簡単だ。
スカーレットでは「淋しいよ」なんて言わない。
それを1人の食卓で表現するのだ。
おのずと賑やかだった頃の食卓が思い浮かび、自然と対比してしまう。
 ハチが家を出て行くシーンもそう。
お見合い大作戦のときはお母ちゃんが背中を押してくれて、追いかけられた。
でも、離婚後、久しぶりに会ってもお母ちゃんはいない。
1人では追いかけられなかった。
 昔のキミコと、今のキミコの対比。
 昔から人のために生きてきたキミコ。
ミツは、ハチの隠されていた劣等感を浮き彫りにした。
キミコは、分かっていた。
ハチをたてていた。
ハチも分かっていた。
キミコに作品を作ればいいと言っておきながら、自分以上の作品を作らないだろうことを。
その均衡を崩したのがミツではなく穴窯だった。
あんなキミコは意外だった。
執念しか感じなかった。
正直怖かった。
ハチが正しかった。
だけれども、結果、キミコはやり遂げた。
ハチは涙を流して手紙に「すごいな」を3回繰り返した。
3回というのもポイントなのだ。
これで充分伝わる。
どうでもいいところを長々とやって、大事なところをとばしているという感想になるのは、甘えすぎなのではないかと思ったのである。
病室で静かに家族の時間を過ごしながら亡くなっていく様を見ないとタケシの死は分からないのだろうか。
どんな最後だったのかは、見てきた人には分かるのだ。
これだけ日常を丁寧に描いているのだから。

 「ちゃんと言葉にしないと伝わらないよ」

 それは、正しくもあるが、全てであるわけでもない。
1から10まで言わないと分からないのであれば、なんと淋しいことだろう。
基礎がしっかりしているなら伝わることもある。
家族間や友人間で、アレで意思疎通ができるのは、そういう基礎ができているから。
だからといって、基礎を疎かにしてもいけない。
きちんと言葉にするのも大切なのだ。

 スカーレットというドラマは、描かない大切さを教えてくれた。
とても愛しい日常と共に。
すごく、すごく愛おしい日々でした。

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