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僕はまだ『新呼吸』から抜け出せない――Base Ball Bear 20周年ライブのあとで

※チラシの裏に書きなぐったような散文で、ライブレポートではありません。

バンドや作家をずっと好きでいるのは難しい。

バンドの中でさえ「音楽性の違い」が生じ、脱退や解散が起こるくらいだ。ファンが「なんか響かなくなってきた」と感じるのは当然のこと。「唐突に環境問題を歌い出して、ファンが離れていく」なんてのは、もはやバンド好きのあるあるネタだろう。

Base Ball Bear『DIARY KEY』から受けた感覚は、そうしたものとはまた違う。音楽性はきっとずれていない。自分の中には、楽曲に共感していつまでもリピートできる部分があるのを感じる。

なら、なぜ名盤と感じられないのだろう。

それは、ある種の疎外感に近いのだと思う。小出祐介は乗り越えて新しいステージへ行き、僕はまだ壁の前で佇んでいる。中学生くらいのころ、友達に恋人ができたときのような感覚とでも言えばよいだろうか。

「ここからだと 続いていくと 信じられない」
「くりかえす不器用を愛せやしない」

僕は今も4.0th ALBUM『新呼吸』の世界のなかで止まっている。TOUR『DIARY KEY』初日の中野サンプラザで、『新呼吸』を聴いたときの形容し難い感情。祝祭に満ちたライブのなかで、僕はまだこの曲のなかで生きていると痛感した。

写し鏡のようで、深層心理を具現化したような10年前の楽曲たち。僕はそこから何も変われていない。

「定点観測した僕の日常は ありふれたあふれたつまらないもの」
「ただ繰り返すだけでさ すでに飽きてる」

ダビングデイズは終わらないまま、たくさん失い時はながれゆく。

変わり続ける君を、変わらず見ているのは恐ろしいことだ。

時間は何を為したか問いつめてくる。誕生日が多幸感に満ちているのは、ほんの僅かな期間でしかなく、そんな日々はとっくに終わった。

Base Ball Bearの25周年も、30周年も見ていたい。卒業アルバムを見返すように、『17歳』や『ドラマチック』を聴くのはどれだけ幸福なことだろう。

けれど、いつまで琴線を保ち続けられるかはわからない。それは外せないマスクや自粛要請よりも切実な問題だ。文化祭をサボったあの頃のように、お祭りに参加しなければ存在しないのと同じだから。

知っている有名人の訃報が増えるごとに、確実に自分も終わりに近づいている。積み重ねた時間は、終わりへのカウントダウンでもある。

そしてまた はじまりつづけてく平熱な僕の毎日は 無意味に無駄に降りつもる
それでも僕は信じられるかなぁ
この一分が、この一秒が、明日への伏線になってくと

「治りたいな」と、切実に思う。

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