whatやwhyよりもhowを見ている

流れ流されて人生の選択ってこれでいいんだっけ、という若者のフレーズを見たのでふと自分のことを書いてみようと思った。

大学は暗記科目が苦手だったので、覚える項目が少ない(と勝手に思っていた)理系を選択し、学部の頃に適当に就活したら失敗して消極的に院に進み真面目に研究もしないまま、最初に内定がでたITの会社に入り、今もなんとなくその会社にいる。コツコツ勉強したり努力するのは苦手で、その場その場をどうにかしのぐように日々過ごしてきたらいつのまにかいい歳である。惑わず、なんてことはなくて惑いまくりである。

ともあれ「俺何やってんだかな」「なんでこんなことやってんだかな」なんて仕事が忙しい時、または暇な時にぐるんぐるん考えるわけで。でもそんなwhatやwhyよりも、自分がいまどうやってその場面をうまく切り抜けるのか、どんな手段と段取りで(束の間の)満足を得られるのか、というhowに集中してきたような気がする。主体性が空っぽすぎて、それしか選択肢がなかったのかもしれないけど。

嫌われる勇気という本を読んだときに「人生とは、いまこの瞬間をくるくるとダンスするように生きる、連続する刹那なのです」というフレーズはわりと自分の価値観のほぼ真ん中にストンとボールを投げ込んで来たな、と寝心地の悪い夜行列車に揺られながら思ったことを思い出す。先のことはあまり考えず、過去も特に省みず、いま自分ができることをできる範囲でやりきる。刹那的だろうと無計画だろうと他人が言っても何も気にはならない。自分の人生という刹那の連続が、明日の朝も続いてることは誰も約束してはくれないのだから。

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