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あんなこと言わなければよかった

「あんなこと言わなければよかった」
ポツリと吐き出すと、グラスを磨く手を止めてちらりとこっちをマスターが見た。
「お話、聞きましょうか?」

さほど大きくない街の、どちらかというとパッとしない繁華街の外れ、地下一階にひっそりたたずむBARスナフ。たまに一人で訪れるし、一度だけ彼と来たこともある。そう、問題の彼だ。

「電池切れちゃったみたい。こんなに傍にいるのにね。こんなに遠くみえる。なんでかな?なんて言ったら彼すごく悲しい顔してて、それで耐えられなくなってここに来ちゃったの」
「長く付き合っていたらそういうタイミングもあるのでは?」
「でも彼を傷つけちゃったから、なんかそばにいられないななんて思った」
マスターは少し困ったような顔をしてから、フフフと笑みを浮かべて口を開いた。
「吐く、て漢字書ける?」
「なによ、いきなり。口に土でしょ、簡単よ」
「草や木を土から吐き出す口という意味らしいですよ。言葉を吐くてことはいのちのもとを吐き出してるてことなんです。だからあなたが吐いた言葉も実は彼の原動力。いいわるいはおいといてね」
「でも…」

遮るようにからんころんとドアベルが鳴った。
「おまえ…!ずいぶん探したんだぞ!」
ズカズカと店内に入ってきた浅黒い彼は、私の腕を乱暴につかんで帰ろうとひっぱる。
「俺なんでもやってるじゃん!掃除も洗濯もがんばってるよ。でもなんで俺のことちゃんと見てくれないの?俺は…」

ペチンッ

バーの音楽が静かに上からまた降ってきた。彼の頬を叩いたマスターが告げる。
「ちゃんと彼女のことを見てないからじゃないですか」
「そんなことない!俺は」
「俺は、は禁止。彼女は、あなたは、から始めたらいかがです」
「彼女は…彼女は…ああ。。ごめん。。自分のことばっかりだったんだな」
私は力の緩んだ彼の手を引き寄せて抱きしめる。
「いいのよ、カンチ。私が悪かった…」
「リカ…!」

2人が帰ったあと静かな店内でへたっぴな小さな歌声が聞こえる。
「あの日あの時あの場所で…」




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