真善美について自分なりに

「真善美…認識上の真と、倫理上の善と、審美上の美。人間の理想としての普遍妥当な価値をいう。」ぼんやりと薄暗いリビングで、そんなググった検索結果が明るい画面の上にぽんとある。

真とは事実に基づいて、理論的論理的に導き出されるもの。江戸川コナンは真実はひとつと豪語するのは正しそう。ただ扱う事実が異なったり、使うロジックがそもそも違えば自分が正しいと思う人の数だけ真実が生まれるので、ぶつかるときは前提と思考経路をすりあわせるべき。ふむふむなんか仕事っぽくてこれは分かりやすい。

善とは倫理的によいかわるいか判断されるもの。…倫理?ちびっこのときに、「友達のかっちょいい鉛筆を黙って持って帰ったA君の気持ちとは」みたいに作文したやつか。ちなみに学校に名字がエイ(漢字忘れた)って子がいて、文章問題でA君がて出るたびにいじられてたけど、元気かしら。ともかく名前で人をいじることはいいことか否かも含めて判断するための基準を持つための倫理観を、社会的文化的に皆インストールされて大人になっていく。ただしこの倫理は非常にグレーゾーンがあちこちにあり、家族ですら完全に一致しないことも普通にある。そう考えると一億二千万人分の倫理観の基準がそれぞれあると思うとなんかワクワクしてきた。おくせんまん、おくせんまん。それをもう自分で判断するの大変!自分以外に完全に判断してくれる基準を持ちたい!というニーズにばっちり応えるのが宗教の大事な役割なんだろう。

美とは芸術的な観点で美しいか否か。字が汚く、作品を常に雑に仕上げて万年美術3だった自分には難しい分野だ。でもデザインがカッコいい、景色が美しいとかは美術芸術を誰に教わることもなく小さいころから自分で勝手に判断しているな。見てきたことや聞いたことの記憶の範囲で自分が気に入ったものを選択した結果だろうか。そうするとまずはいろんなタイプの作品(自然含む)に触れる機会が少ないとチープな美的センスになるのはすぐ分かる。でも大量の写真展を見たって自分の撮る写真が上手くならないのは、「なぜこの写真はいいのか」という、作品を読みとる力、感じる力がないからという大きな第二段階が後ろに控える。それを学習するにはそれなりのコストがかかるけど、一流の経営者やらラッパー、プロデューサーとかはそれをふまえたうえでNYのギャラリーに足を運んで彼らの判断のためのインスピレーションを得るのだとか。

以上ただのメモ書きなのでオチはない。が、哲学的には真善美3つは切り離せないものなので、これは正しい、でも善いことなのか?これは善いこととされてる、でもこのやり方ダサくない?とか再考するにはよい道具かもね。そろそろ夜明けだ。

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