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#1 長部田海床路

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風景写真を撮影するとき、どれくらい同じ場所に留まるだろうか。

初めから撮りたいショットがイメージできているなら、息をひそめるように「その瞬間」を待つだろう。この場合、撮影に至るまでの時間は待ち時間となる。スマホを触ったりして時間をつぶすかもしれない。ゴールが先にあり、極端な話その間はすべて省略化の過程となるのである。

一方、その過程すべてが目的となるケースもある。たとえば夕日だ。今回の長部田海床路はまさに夕日が沈む時がフォトジェニックであり、時間経過による変化がどのように色を変えるかは本稿に設定した2枚を見比べていただければ一目瞭然といえるだろう。
※ちなみにタイトルに設定したほうが17:58、記事内が18:30と30分差である。

「一瞬を待って逃さない」「おもしろさを感じたときにシャッターを切ろう」というスタンスの違いは景色の見え方も変わる(どちらが良いかという話ではない)

前者のように完成体をあらかじめイメージすることはその前後を「成功」の意識から除外することであり、被写体としての連続性を持たず変化を察知する感覚が弱くなる(気がする)。
半面、後者は決定的なゴールがないため、切り上げ時が難しく予想だにしない瞬間を見つけることがある。

予測の外にも案外おもしろい光景は見つかるものだ。そのためにもダラダラと写真を撮り続け、風景をじっくり堪能する。いつの間に周りの人が影になった、など。ソロなら別に時間を気にすることもないだろう。

ある意味でスナップショットを撮影する意識の持ち方と言おうか。基本的に「成功か失敗か」の2択になりがちな風景写真においてそのような気楽さを持つと、違った楽しみも生まれるのである。
私はそのような考えがあるので、旅先で撮る写真においては絶景であってもスナップ感覚で撮りたいと思っている。これは経験則からの帰結だ。写真を撮ることが目的であってもそれ以上に体験を忘れたくない。
大事にしたいことは撮影そのものへの意識を薄めること。その場所にいたこと、見たもの聴いたもの匂いや肌の感覚を覚えていること。


さておしまいにこの場所について。
長部田海床路熊本の宇土から天草方面の海岸線にある。見ての通り映える。実際行くとわかるが、とにかくエモい。語彙がなくなる。「恋人たちの聖地」など言われてもしっくりくる。でもそれやられたら行けなくなるからやめてほしい。

難点を言えばアクセスの不便さと、すばらしい時間のあとは街灯の少ない真っ暗な中をそこそこ距離走ること、であろうか。
注意点は満潮を潮見表などできちんと確認すること。

かれこれ数年行けていない。今年は無理そうだがまた行きたいな。

撮:2017/0903

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