重い口を開いたとき。
今年は、例年通りという言葉があまりにもフィットしない年だった。
コロナ禍ということによって、通常とは違った新しい試みを何度も繰り返す。その影響も少なからずあったのかもしれない。
また、30という歳の節目も何かしらの身体への影響をもたらしていたのでは。と思ったりする。
私が休職に至った経緯と感じたことをnoteに書き留めてこれからの将来に繋げていこうかと思う。
まだnoteの使い方がわからないので、悪しからず。
・いつも通りができなくなった
学校が再開してしばらく経ったとき、徐々に自分の異変を感じ始めていた。
学級は、なかよく、かしこく、を合言葉に、比較的仲良く過ごし、けんかといえるようなけんかもなく、助け合おうとする優しい集団である。支援が必要な子は少なくなかったけれど、一人一人の個性や特性を割と他の方より敏感に感じ、理解できる力があるらしく、(最近ではHSPという言葉を聞き始めたが、おそらくその類だと思うのと、元々は相談員をやっていたから)個々を理解していたと思う。ただ1人、どうしても大人がつきっきりで見ていなければならない子がいたけれど、そのことの関係も悪くなかったと思うし、それなりにやりがいをもって仕事をできていた。
去年の学級に比べたら、問題は起きないし、発達段階的にも今年は楽だなと思えるくらいだった。
今までは家に仕事を持ち帰り、娘と話をしながら、娘がテレビを見ている姿を見ながら、仕事をすることもあった。
1週間前には教材研究を終え、また来週に備えて準備をしていた。
職場では明るく振る舞い、支援に対する大人たちの対応について話し合うときも、どの人にとっても頑張っているところはあるし、それを認めつつ、より良い方向性を提示していけるようにしていた。
その分、イライラや悲しみを堪えていたのは事実だった。
ある時から、職場の門を出た瞬間に涙がとまらなく、泣きながら帰る日が続いた。
家に着くと、娘には気づかれないように、そそくさと夕飯の支度を終え、食べさせ、お風呂に入り、さっさと寝る。実際には全く眠れないのだが、ソファにどっかり座るようなイメージで布団に倒れ込む日々が続いた。
娘に話しかけられても
疲れてるんだから話しかけないで!
と意味のわからない言い訳で追い返し、もはや会話などなかった。
お付き合いしている彼には、ひたすらに八つ当たりとネガティブな話をし、喧嘩をふっかけては気持ちを発散していた。
・病院へ行く
ある朝、まるで不登校のように布団から動けなくなった。行かなきゃいけないのだけれど動く気になれない。というのか。動けるけど動けない。というか。
そのまま突然仕事を休み、病院へ行った。
内心わかっていた。自分の身体の状態を。
わかっていたからこそ、病院へ行った。
医師は懇切丁寧に話を聞いてくれた。時折涙が止まらなく、あぁ、私はこんなに我慢をしていたのかと初めて自分の感情に気づいた。
診断名は
適応障害による、抑うつ状態
最初から医師は、休職しなさい。と言った。
けれど私は、それを拒んだ。
私は、仕事がすきだし、この仕事に就くために何年もかけて、他の仕事と子育てと両立させながら勉強してようやく今の仕事を始めた。支援を必要な子のために、より良い未来を選択できるように力添えをしたかった。その上、母子家庭で生活もある。仕事を休んだら自分たちの生活はどうなる?娘の将来は?
これまで自分を応援してきてくれた人はがっかりするだろう。信頼を築いてきた子どもたちや、保護者はどう思うだろう。残された支援が必要な子どもたちは、置き去りにされてしまう。私がいないことで他の職員にかける迷惑はどれくらいのものだろう。
一瞬で色々な考えが浮かんだ。
その場ですぐに休職したいとは言えなかった。
医師は、その気持ちを理解してくれた上で色々な方法を提示してくれた。その時の私にとってどれほどの心の安心感を与えてくれたことか。
・業務の軽減をすること
・軽減がなければ、今後、休職する可能性があること
このことを診断書に書いてくれ、職場に提出した。
管理職は、ちゃんと伝えてくれてよかったと言った。
けれども、業務の軽減はなされなかった。学校という小さな社会では、現状人手が足りず、かと言って誰でもいいわけでもない上に、教育委員会というもっと上からの指示がなければ学校体制を変えることはできない。明らかな縦社会。例年どおり、が当たり前。
わかってはいたけれど。
診断が出てから、自分に症状に納得することもあり安心した。
けれど、症状は増悪し、耳が塞がれたように聞こえなかったり、耳鳴りが頻繁におこるようになったりした。夜は眠れず体と脳が別々になったようにずーっと頭では考え事をして体は寝ているような状態が続いていた。
家での感情の起伏は、学校でも現れ始めた。
これまでは、何か問題が起きても、仕方ないと受け入れる気持ちをもてたけど、
「いい加減にしなさい!何度言ったらわかるの!」と感情的な言葉が出るようになった。
もうこのままではだめだと、この時点で感じた。
・診断が出てから一ヶ月後、再度病院へ行く
医師に一ヶ月の経緯を話し、変わったこと、変わらなかったこと、など伝えた。
相変わらず柔らかな口調で、
もう、休みましょう。
医者がそう言ったと、私のせいにしていいから休みましょう。
と言ってくれた。
あらゆる不安からの逃げ口を作ってくれた。プロだった。ありがたいなと思った。
そうして、ようやく私は重い口を開き
「休職したい」と言ったのだった。
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