『学と信仰』

 そこは山奥であった。ただ見渡すばかりの緑が茫々と生えており、身動きさえとりにくいような場所だった。入山してよりしばらく経つ。もう空は私の澱のようによどんでいる。嗚呼、東西南北すらも分からない。
 背の高い草をかき分けかき分け、どうにか歩を進めるとむしろ殺風景とも言えるこの草原に、小さな寺がぽつんと建っていた。寺の周りは草が刈り取られている。
「どなたかいらっしゃるか」
 そう問うてみると、はい、と奥から声がした。すると中から男の僧が顔を出した。名を範久というらしい。しかも阿闍梨ときた。
「如何なさった」
「私は三日後死んでしまいます。病です」
 私がそう言うと範久は気持ちの悪い笑みを浮かべた。にたにたと上がる口角は今にも引き裂けてしまいそうなほどで、私は嫌な予感がしてならなかった。
 大きく、風が一つ吹いた。草木も寺も大きく傾いだ。すると範久は、
「西方浄土の恵みである」と、手をこすりあわせた。
 私は何ともなく気になってしまったものだから、それは何でございましょうかと聞くと、範久の顔が一瞬で青ざめていくのが分かった。
「ここより遙か西の地に天竺という極楽浄土の地が在ると云われておるのだ。私はこれまで西に背を向けたことは無い。たった今吹いた風は西からの風だから、このように信仰深き私への恵みであるに違いない」
 成る程と思った。だから範久は私を見ることなく、私より遙か後方の空しか見ていないのだろうと。なんと信仰の厚い僧であろうか。この範久阿闍梨であれば私の病を養生してくれるのかもしれない。なにせ阿闍梨であるのだからそれは間違いようのない事だ。
 寺へ入れてもらうと、中は僧らしくーー僧らしさというのが何かは知らないがーーとても吝嗇であった。僅かでも贅沢な食べ物も食器などもない。書物さえも、経が一冊、床の上に置かれているばかりである。障子にはいくつか穴が開いており、もはやなんの役割も果たしていない。そもそも仏像の類もない。
薄汚い畳に腰を下ろし、対面に範久が座っている。未だにたにたと私の背後を見ている。こうしているうちに何かどんどん厭になっているような気がしてきて、このままこっそり帰ってしまおうかとも思ったが、この僧、私から片時も目を離そうとしない。
もしや、実の所は妖怪変化の類あるいはそういった畜生でこれから取って食われるのではなかろうかと疑いもしたものの、どうにもそういった気を範久から感ぜられず、ただ薄ら気色悪い目線に耐え続けている。
今となれば、あのまま草木の中でぱったりと野垂れ死んでおけばよかったと思うものである。
病の養生のための奉仕も一日が過ぎた。ほんの一日しかすぎてはいないが私の大切な寿命がもうじき潰えようとしているのだから大切な一日である。
そんな一日で分かったことといえば、この範久には学がない。阿呆である。
昨日の晩のこと。どうにも気持ち悪かったが、坐禅を組み、念仏を唱えて、禅問答もした。
この問答のうちに私は興が乗ってきて、それともなく単純な常識をかの阿闍梨様に問うてみたところ、しばらく意味深長に黙って何やら難儀そうな表情を浮かべたと思うと、途端に口を開き、私は何を言い出すやらと多少の期待を持ちつつもその少しの好奇心もおくびに出さないよう平静を保っていた。すると、範久の黒目がどこを見るでもなく、あちらこちらへ白目の中を一周泳がせてまわり、「西方浄土へ向かうには世俗の理などどうだって良い事なのだ。私に指図するな、要らぬ問は控えよ」などと全くもって意味不明な世迷言を夜もすがらぼそぼそ言うので、どうにかなってしまいそうだった。
これが昨日。ほんの一日二日でばれる様な阿呆はもう大概のもので、今朝も範久が知らぬ魚がいて釣ってきたと言うので、何かと見ると、ゴカイと山蛭だった。
なぜこれが魚だと思えたのか私には到底理解が及びそうもなく、こやつの頭の回路とやらが不思議で仕方がなくなった。と同時に、これはもうたとい妖怪変化であっても何とかなりそうだなとなんとなく安心と確信を持つことが出来た。
 翌日。
 今日が恐らく私の最後である。幾ばくかの恐怖と後悔が私の中で薄ら気色悪くぐるぐると巡り、それはあの範久の口角を彷彿とさせた。
 ふつうに死んでいく。まぁ、悪くはないか。
 仮にもここで世話になったのだから掃除でもして奉仕しようと思った。あの範久もそうするようで、寺の一番奥の壁に背をつけながら箒で床をはいている。
「西の神々よ!西の神々よ!」とか言っている。
私も掃除を始めた。すると、畳の隙間から赤く色付けられた鉄みたいなものが見つかった。なんぞこれはと訝しんでこれを観察しようとしたとき、突然とてつもない力によって寺の外へと体が浮くほどに引きつけられた。
寺から引っ張り出され、門を出てそこから体が左を向いた状態になった。右腕の肘がぴんと張っている。ともすると、この鉄のせいであろう。
あぁ、そうか。
私が呆気に取られていると、範久が横走りで走ってきた。そこそこに速い。ちょうど私の左半身側に全身を向けながら急停止し、にたにたと笑う。
「めでたいな、お前ももうじき西方浄土へ行くのだな」
私はここがこの上ない好機に思えました。この阿呆に一泡吹かす最大の好機が到来したのです。
「じゃあまずはお前がその西と向かいあえ。西は貴様の背にあるぞ」
冷酷に突き放すかのように、厳格に叩きつけるかのようにこのように言った。
範久の顔が青ざめていくのがわかった。それからほんの一瞬、あの気色の悪い笑みを湛えたかと思うと恐ろしく、悲鳴ともつかないような叫びをあげて、範久阿闍梨も、寺も、周囲にあった草木も、何もかも砂になって南西から吹いた風にいつまでも飛ばされて行ってしまった。
私はどうにも笑いが止まらなかった。
「やっぱり阿呆だ!奴は阿呆だ!」
私の顔はどんどん気味の悪い笑顔を浮かべていった。にたにたと上がる口角は今にも引き裂けてしまいそうなほどになってしまったが、私はこの上なく幸福だった。
もう一つ声高く笑ってやろうと息を吸うと、心臓の当たりを刺し貫かれたような痛みが迸った。私は笑いながら倒れた。
すると、私も砂になって、吹き続ける南西からの風に吹き飛ばされていった。

それなりに賢い者が、
阿呆を、
こいつは阿呆だと思っている時、

その阿呆もまた、
その賢い者を、
こいつは阿呆だと思っている。

どこぞの哲人がそのようなことを言っていた。

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