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「日本一オシャレ」な街:代官山を作った朝倉家と槇文彦のDNAとは?

私は、代官山という街がとても好きです。

代官山と言えば、真っ先に思いつく言葉は「オシャレ」という人も多いはず。しかし私が代官山を好きな理由は、その「オシャレ」さではありません。

代官山はまさに「まちづくりの最高傑作」。まちづくりを生業とする私は、この日本一オシャレな街ができるまでの過程と、関係者の情熱には何度も心を震わされました。

日本一オシャレな街も、元は普通のまちだった

代官山の家賃相場はワンルーム・1K・1DKの部屋で13.53万円と、隣の渋谷駅近辺には及ばないものの、都内でも家賃が高いエリアです。

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引用元:ライフルホームズ「東急東横線の家賃相場情報」

渋谷駅に近い、という利点もありますが、代官山駅自体は東急東横線にしかなく、乗り換えに便利な駅ではありません。家賃相場の価格=そのエリアの人気度と考えると、代官山には、その立地だけではない、まちとしての魅力が確かにあります。

都会の喧騒から離れて、ゆったりと流れる時間と、余裕を感じさせる空気などが織りなす「日本一オシャレな街」としてのブランドです。

しかしそんな代官山は、昔からオシャレで先進的で、セレブな街だったわけではありません。50年前には、緑の生い茂った細長い傾斜地で、他と変わらない普通の住宅地でした。

代官山の代名詞「ヒルサイドテラス」

この代官山のまちづくりのカギになるのが旧山手通りにある、店舗・オフィス・住宅などからなる複合施設「ヒルサイドテラス」です。

代官山は東京23区内にありながら、高層・高密度の再開発の波にも飲まれず、ヒルサイドテラスから始まった独自のコンセプトを守りながら30年かけて作り上げられました。

代官山

画像引用:ヒルサイドテラス 公式サイト

代官山という名前は、東京在住の人以外でも知っているほど有名だと思いますが、実際にその範囲はあまり広くありません。

ヒルサイドテラス200

航空写真:Googleマップより

旧山手通りに並ぶヒルサイドテラスは、10棟以上の建物からなりますが、いずれも交差点から直線距離で200メートル強の範囲内に並んでいます。また代官山駅などを含めても半径200メートルの範囲に全てすっぽりと入ります。

計画が開始した50年前には、オシャレなブティックやレストランなど一つもなかった場所に、一軒一軒、相応しいテナントを探してきたといいます。

そしてそれぞれの建物に、その時代にあわせた、人気の飲食店や、オシャレなアパレルショップが入っています。他にもアートギャラリーがあったり、テラスでピアノコンサートが開催されたり、パーティーやセミナーなどが開催できるスペースもあります。

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画像引用:ヒルサイドテラス 公式サイト

半径200メートルという範囲の中に、衣食住だけでなく、代官山の、ヒルサイドテラスのコンセプトに沿ったアクティビティが展開されています。

そして東京中から、いや、日本中からこの場所に憧れた人たちが日々やって来るのです。

都市デザインの考え方にアクティビティーファーストという考え方があります。そこでは、

◆10以上のアクティビティが展開されている場所→プレイス
◆10以上のプレイスが集まる地区→エリア
◆10以上のエリアが集まる都市の中心的な市街地→ダウンタウン

と定義されています。

代官山は、ヒルサイドテラスを中心に複数のアクティビティが連なり「プレイス」となり、多くの人が訪れるようになった結果、周辺に雑貨やファッションや飲食店が並ぶ「エリア」へと拡大し、50年をかけて大きな「タウン」へと成長しました。

私はこのアクティビティーファーストに則り、普段、田舎のまちづくりを考えるときに「半径200メートルの中に、人が集まる仕掛けを作ること」をとても重視しています。そしてその小さな範囲をきっかけに、まちの価値を上げる「まち上場」を提唱しています。

代官山は、その意味でも私が理想とするまちづくりの、まさに最高傑作です。

短期的な開発ではなく、長く愛される街をつくる

代官山「ヒルサイドテラス」を作ったのは、代々この場所の地主である朝倉家と建築家の槇文彦(まき ふみひこ)氏です。

それ以前に建てていたような四角い鉄筋アパートとは違うことをやりたい、と朝倉家から槇氏へ依頼したことがきっかけとなり、30年に及ぶ都市計画へと発展しました。

結果的に代官山は「建築というハードが街をつくった」事例として世界的にも注目されるようになりました。

槇氏の素晴らしい建築はもちろん、それを全面的に受け入れた朝倉家の意思決定なくして、今の代官山の姿はあり得ません。

ヒルサイドテラスが「ハコ」をつくって、売って終わり、という開発とは決定的に異なるのは、そこに開発者である朝倉家が住みつづけていることである。その長い年月をかけた開発のバックボーンとなったのは、地域社会の中で何ができるのか、その責任の所在を問いつづける、代々そこに住みつづける施主とひとりの建築家との深い信頼関係に基づく協働であった。

※ヒルサイドテラス物語 朝倉家と代官山のまちづくり(前田礼著 現代企画室)P70より引用

まちのコンセプトは変えずに、開発者である朝倉家の人々自身がそこに住み続け、時代の変化や新たに訪れる人のニーズに合わせて小さく、連鎖的に開発をし続けていく街づくりの姿勢や在り方に私は強く惹かれます。

代官山は、東京という大都会の中にありながら、高層・高密度のビル開発といった大街区方式とは全く異なるあり方で、大手ディベロッパーではなく、一中小企業が主体となってまちを作りあげてきました。

おそらく、朝倉家はもっと事業を拡大したり、大規模な開発をすることも可能であったはずです。しかし彼らは、短絡的に儲けることではなく、いかに空間を活かし、長期にわたり快適な場所として保たれるかを重視しました。

そして結果としてその選択こそが、代官山という土地の価値を高め、多くの人に愛される街を作り、彼らの利益にもつながっていることは間違いありません。

代官山の歴史は、自分たちには関係のない都会の開発話ではありません。田舎のまちづくりを考える人にとっても、これ以上ないと言えるほどの学びが詰まっています。

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代官山という街の素晴らしさは語り出したらきりがなく

・半径200メートルの最小ロットで「まち上場」を果たしたこと
・常に計画をブラッシュアップしながら再投資を続けたこと
・人を集めるテナントの誘致方法
・地形を活かした建築
・住居、店舗、オフィスが共存していること
・外の人に対して開かれていること

など、まちづくりの極意がこの場所には詰まっています。

ヒルサイドテラスの計画はすでに完了していますが、ヒルサイドテラスが作り上げてきたこの街のテーマは今も途切れることなく、後続の建築物にも受け継がれています。

例えば、2011年にオープンした「代官山 蔦屋書店」は、ヒルサイドテラス計画として建てられたものではありませんが、その佇まいからは、代官山、そしてヒルサイドテラスの文化と建築へのリスペクトが明らかに感じられます。


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画像引用:「代官山 蔦屋書店」 公式サイト

ぜひ、次に代官山に足を運ぶ際には、ぜひこの街並みが作られた歴史も感じながら歩いてみてください。

緑が生い茂る、平凡な住宅地が、どのように特別な街になったのか?これまでとは違う、新たな代官山の魅力が見えてくるかもしれません。

株式会社SUMUS 代表取締役社長
小林 大輔

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